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'''明応地震'''(めいおうじしん)は、[[室町時代]]後期([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期)に発生した[[地震]]である。[[南海トラフ]]沿いの[[巨大地震]]と推定される。
記録にある被害分布が[[安政東海地震]]に類似しており<ref name="Usami-kaihou" />、震源域は[[東海地震]]・[[東南海地震]]と思われるものであった<ref name="Koyama">{{PDFlink|[http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/etc/onlinepaper/koyama2008a.pdf 小山真人(2008)]}} [[小山真人]]:(2008)
== 東海地震の記録 ==
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『[[御湯殿上日記|御湯殿の上の日記]]』、『[[後法興院記]]』、『[[実隆公記]]』、『[[言国卿記]]』および『[[大乗院寺社雑事記]]』等に[[京都]]や[[奈良]]など[[畿内]]付近の記録が見られる。『言国卿記』や『御湯殿の上の日記』には[[閏]]10月まで、『実隆公記』には11月7日まで[[余震]]と思われる地震の記録がある。畿内の被害と思われるものは『大乗院寺社雑事記』にある[[興福寺]]と見られる[[地蔵堂]]の庇が崩壊した記録である。『後法興院記』の東海道沿岸における記録は伝聞によるもので「大地震之日、伊勢、参河、駿河、伊豆大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、人歿命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也」とある。しかし、明応の頃になると畿内付近のみならず、[[遠江国|遠江]]や[[駿河国|駿河]]で記された記録も確認されるようになる<ref name="Yata">矢田俊文 『中世の巨大地震』 吉川弘文館、2009年</ref>。
[[紀伊国|紀伊]]から[[房総]]にかけて[[太平洋]]側で震動が強く、『王代記』に「[[黒川金
河角廣により[[マグニチュード]]として''M'' 8.6が与えられていた<ref>{{PDFlink|[http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/11692/1/ji0293004.pdf Kawasumi(1951)]}} Kawasumi, H., 1951, Measures of earthquakes danger and expectancy of maximum intensity throughout Japan as inferred from the seismic activity in historical times, ''Bull. Earthq. Res. Inst.'', Univ. Tokyo, 29, pp.469-482.</ref>。また''M'' 8.3<ref name="jiten" /><ref>宇佐美龍夫 『日本被害地震総覧』 にある''M'' 8.2 - 8.4の中間値を採用。</ref>前後、あるいは東海沖から伊豆半島南方沖と推定される断層モデルから[[地震モーメント]]は''M''<sub>0</sub> = 7 × 10<sup>21</sup>N・m<ref name="Aida">{{PDFlink|[http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/12810/1/ji0562004.pdf 相田勇(1981)]}} 相田勇(1981): 東海道沖に起こった歴史津波の数値実験, ''東京大学地震研究所彙報'', '''56''', 367-390.</ref> (''M''w 8.5<ref name="Rikitake">[[力武常次]] 『固体地球科学入門』 共立出版、1994年</ref>)と推定され、震度分布を推定する記録もこれ以前の地震よりはるかに充実しているが、[[江戸時代]]の地震より記録が少ない[[歴史地震]]であり、断層モデルによる近似の程度も悪く数値の精度は
== 津波 ==
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! rowspan="2" colspan="2" style="background-color:#669999" | 地域 !! colspan="4" style="line-height:1.6em; background-color:#aad" | 推定波高・遡上高
|-
! 古文書の記録 !! style="white-space:nowrap;width:
|-
| [[安房国|安房]]小湊 || 現・[[千葉県]][[鴨川市]] || || 5m || 4-5m ||
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| [[土肥]] || 現・伊豆市 || || || || 栄源寺18m
|-
| [[戸田]] || 現・[[沼津市]] || ヒラメが打ち上げられる(伝承) || || || 20m<br />平目平36m
|-
| [[江梨]] || 現・沼津市 || 未刻江梨村津浪寄来而、庶人海底沈没不知数『江梨航補院開基鈴木氏歴世法名録』 || || || 航補院16m
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|}
津波は[[鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]参道にも襲来し、また[[高徳院]]の大仏殿はこの地震による津波で倒壊して、鎌倉の大仏が室町時代末に露坐となったとする説がある<ref name="Kokushi">菊地勇次郎 「高徳院」『国史大辞典5』 吉川弘文館、1984年</ref>(後述、異説有)。{{see also|高徳院}}
仁科では海岸から十八九[[町 (単位)|町]](約2km)内陸まで津波が到達したという(『増訂豆州志稿』)。八木沢の妙蔵寺(現・[[伊豆市]])には宝永津波が標高約20mの大門まで来たとする伝承があり、境内の[[スギ|杉]]に海草がかかったとも伝えられている<ref name="Hatori1977">{{PDFlink|[http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/12645/1/ji0523005.pdf 羽鳥徳太郎(1977)]}} 羽鳥徳太郎(1977): 27. 静岡県沿岸における宝永・安政東海地震の津波調査,''地震研究所彙報'',52, 407-439.</ref>。この伝承は伊豆半島西海岸で余り被害の出なかった宝永津波ではなく明応津波の可能性も考えられるとされる<ref name="Tsuji2011" />。[[沼津市]]戸田地区の平目平には[[ヒラメ]]が打ち上げられた伝承が存在し、平目平の標高から津波の遡上高は36mに達した可能性が指摘されている<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0917/TKY201109170541.html asahi.com] [[都司嘉宣]] 津波高さ36メートルまで到達? 500年前の東海地震</ref>。
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『林叟院創記』には「加之大地震動海水大涌。而溺死者大凡二萬六千人也。林叟之旧地忽変巨海也」とあり、駿河湾岸の[[志太郡]]付近で水死2万6千とされるが<ref name="jiten" />、信憑性は不明であるとされる<ref name="soran" /><ref name="Yata" />。
『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、かつて淡水湖であった[[浜名湖]]が、津波により[[太平洋]]とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大した<ref name="Koyama" />。かつて浜名湖から遠州灘へ流れていた浜名川に架橋されていた浜名橋たもとに栄えていた橋本は津波で壊滅的打撃を受け、その後新居(元新居)に移転し、その新居も宝永
湊町として栄えていた[[安濃津]](現・[[津市]])は遺跡の発掘から[[16世紀]]初頭から[[18世紀]]初頭頃まで空白期が見られ、明応地震津浪で壊滅的な打撃を受け
『内宮子良館記』には「今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余人五千人許流死ト云々、其外伊勢島間ニ彼是一萬人許モ流死也」とあり、伊勢[[大湊 (伊勢市)|大湊]]で家屋流失1千、溺死5千、伊勢、志摩で溺死1万とされ<ref name="soran" /><ref name="jiten">[[宇津徳治]]、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年</ref>、[[宮川 (三重県)|宮川]]河口付近にあったと推定される塩屋村では[[塩田|塩浜]]が被害を受け塩業が成立しなくなったとされる<ref name="Yata" /><ref name="Yata2005" />。
紀伊では[[紀ノ川]]は、かつて河口付近で南流し現在の[[和歌川]]が本流で[[和歌浦]]に注いでいたが、『[[紀伊続風土記]]』の記述から現在の河口位置に変化したのは明応から[[寛永]]年間の間と考えられ、明応年間に住民や寺社が和田浦(現・[[和歌山市]])から湊村に移転したとする伝承があり、明応津波で被害を受け、紀ノ川が現在の河口位置に移ったとされる<ref name="Yata2005" />。ただし『紀伊続風土記』の記事は「明応ノ比津浪」、また『和歌山県神社寺院明細帳』では「明応ノ海嘯」とあるのみで具体的な年月日の記述はない。
=== 日本最古の高台集団移住 ===
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『鎌倉大日記』には明応4年8月15日(ユリウス暦[[1495年]]9月3日、グレゴリオ暦1495年9月12日)に大地震が発生し、[[由比ヶ浜]]から参詣道に津波が押寄せ、高徳院の大仏殿が破壊され、溺死者200人余出たとある。
{{Quotation|
明応四年[[乙卯]]八月十五日、大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢入大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘
}}
『大日本地震史料 増訂』では、この記録は明応7年8月25日の地震の誤記の可能性有としている<ref name="Dainippon1940">文部省震災予防評議会 『大日本地震史料 増訂』 1940年</ref>。宇佐美(2003)も、この記事は疑わしく明応7年8月25日の地震との混同の可能性有としている<ref name="soran" />。
一方で同日、『御湯殿の上の日記』に「地しんゆる」、『後法興院記』にも「十五日乙丑晴、酉刻地震」との記録もあり、少なくとも京都においてこの日、有感地震があったとされ<ref name="soran" />、また、古代・中世には未だ巨大地震が隠されている可能性があり、1495年の地震は[[関東地震|相模トラフ巨大地震]]の検討候補とされている<ref>{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/50/appendix/50_appendix_1/_pdf 石橋克彦(1998)]}} [[石橋克彦]]、佐竹健治(1998): 総合報告:古地震研究によるプレート境界巨大地震の長期予測の問題点 -日本付近のプレート沈み込み帯を中心として, 『地震』 第2輯, '''50''', 231-243.</ref>。
== 明応7年6月11日の地震 ==
『御湯殿の上の日記』、『後法興院記』、『[[続史愚抄]]』など幾つかの史料に明応7年6月11日未-申刻(ユリウス暦1498年6月30日15時頃、グレゴリオ暦1498年7月9日)、畿内付近における大地震の記録がある。ただし被害記録は見当たらず、史料数は明応7年8月25日の地震より遥かに少なく、『後法興院記』では8月25日の地震について「辰時大地震、去六月十一日地震一倍事也」と述べている事から、京都において8月25日の地震は6月11日の地震の2倍の強さであった事になる<ref name="Yata" />。一方、[[1854年]]の安政地震については京都付近は[[安政東海地震|東海地震]]と[[安政南海地震|南海地震]]は同程度の揺れであったと記録され、京都における[[気象庁震度階級|震度]]は共に4 - 5程度と推定されている<ref name="soran" />。
同日の巳刻(10時頃)に[[日向灘]]が震源とされる地震があり、宇佐美(2003)は別の地震と考えるとし<ref name="soran" />、『九州軍記』には以下のよう
{{Quotation|
[[戊午]]六月十一日卯ノ中刻ヨリ九國ノ大地震隙ナク震フ巳ノ刻ニ至テハ天大ニ鳴渡リ地夥フ弥增ニ震フ山崩テハ海川ニ入リ地裂テハ泥湧出ル神社仏閣ノ鳥居石碑過半ハ顛倒セリ民屋ハ一宇モ全カラス
110行目:
1988年、[[高知県]][[中村市]](現・[[四万十市]])[[四万十川]]支流の中筋川岸辺にあるアゾノ遺跡から[[15世紀]]末頃の噴砂が上昇した痕跡が発見され、1993年にはアゾノ遺跡に近接する船戸遺跡で地割れに石を並べた痕跡が発見された。アゾノ遺跡では噴砂痕より後の年代に人間の生活の痕跡が見られない。[[徳島県]][[板野町]]の[[吉野川]][[沖積低地]]では[[14世紀]]後半から[[16世紀]]初頭までに存続した集落跡の調査で、[[液状化現象]]による噴砂の痕跡が発見された<ref>寒川旭 『揺れる大地 日本列島の地震史』 同朋舎出版、1997年</ref>。加えて、[[愛媛県]][[新居浜市]]の『黒島神社文書』に、「明応七年の震災に、大地大に潰崩し、島の六七歩は流失し、此度二三の遺島となれり、明応七年の震災に罹り、本殿拝殿共破壊し、住民四方に散乱し」という記述が存在することが判明し、[[四国]]における15世紀末頃の大地震の記録・痕跡が相次いで発見されている<ref name="Sangawa">寒川旭 『地震 "なまず"の活動史』 大巧社、2001年</ref>。
また、明応7年6月11日未-申刻(ユリウス暦1498年6月30日15時頃、グレゴリオ暦1498年7月9日)には[[九州]]において家屋倒壊被害の記録があり、[[伊予国|伊予]]では陥没などの地変を筆頭に[[1498年日向灘地震|日向灘地震]]と推定される地震の記録があったが、同日には[[畿内]]でも地震の記録が残っているため、これらが同一地震ならば震源域の変更が必要ともされている<ref>[[国立天文台]]
一方で6月11日の地震を南海地震と断定するには更なる作業を必要とし、むしろ紀ノ川河口付近の津波を東海地震と同日の8月25日と考え、明応地震は宝永地震と同様に東海地震および南海地震が連動した可能性もあるとされる<ref>石橋克彦(2002): フィリピン海スラブ沈み込みの境界条件としての東海・南海巨大地震 -史料地震学による概要-, 京都大学防災研究所研究集会13K-7, 報告書, 1-9.</ref>。
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