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[[霊帝 (漢)|霊帝]]の崩御に伴い、生母[[霊思何皇后|何太后]]とその兄である[[大将軍]]の[[何進]]により擁立された。しかし何進が[[宦官]]によって[[暗殺]]され、さらに宦官も[[袁紹]]によって皆殺しにされたため、その時期に[[洛陽]]に入ってきた[[董卓]]によって、異母弟の[[献帝 (漢)|劉協]](献帝)が擁立され廃位となり、[[弘農]]王に封じられた。
 
その後、董卓の専制に反発した諸侯による反董卓連合が起こった時、連合軍に擁立されることを恐れた董卓に命じられた[[李儒]]によって、[[長安]]遷都前に毒殺された。後に懐王と弘農王としての[[諡]]されたため、実質的に皇帝とは認められなかったことになる。
 
在位わずか5ヶ月に過ぎないが、地方[[豪族]]の一人に過ぎなかった董卓に帝位を廃されたことは、事実上後漢王朝が滅亡したことを意味している。
 
『[[三国志演義]]』では、劉協よりも若干年上の少年である。劉協の方が聡明さがあり、逆に劉弁は暗愚であったために、廃位された後、何太后と共に李儒により高所から突き落とされ、殺害されることになっている。
 
なお、三国志演義やその派生作品などでは幼帝扱いにされているが、即位当時の年齢17歳というのは、実は後漢歴代皇帝の[[即位]]時年齢の中で4番目の高年齢にあたる(劉弁より上位の3人は初代~3代であり、4代目以降では最年長)。こうした事実は、後漢朝の歴代皇帝がいかに幼く、権力のない皇帝ばかりだったかを証明するような話である。
 
{{後漢の皇帝|第13代:189年}}