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[[File:Fukushima 1 01.jpg|thumb|福島第一原子力発電所。2011年11月撮影。]]
'''福島第一原子力発電所反対運動'''(ふくしまだいいちげんしりょくはつでんしょはんたいうんどう)では[[原子力撤廃2011年]]運動爆発事故前から続いて来た、[[東京電力]][[福島第一原子力発電所]]の建設運転に伴って周辺自治体で発生した対する反対運動全般について説明する。特定の場所に関わらない

*福島第般的な以外の[[:Category:反子力発運動|原発運動]]については[[原子力撤廃]]」へ
*[[福島第二原子力発電所]][[浪江・小高原子力発電所]]の反対運動については各発電所の記事を参照すること。
 
== 反対運動の誕生 ==
[[File:Futaba District vs Fukushima evacuation zones japanese version.png|thumb|双葉郡の自治体と福島第一原発からの距離と周辺市町村]]
計画初期は地元の大半が賛成状態だったとは言え、1960年代より数は少ないながらも懐疑派、反対派は存在していた。
 
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岩本は元々[[双葉町]]で酒屋を営んでおり、1958年社会党に入党、1963年より1期、双葉町の町議を務めた<ref>岩本の社会党時代の来歴については{{Harvnb|朝日新聞いわき支局 編.|1980|p=335,338}}</ref>。町議になって間もなく東京電力が1964年より用地買収を開始し、[[大熊町]]との合併話がその頃に持ち上がった。名目は「合併した方が東電への寄付の申し入れもやりやすい」というもので、岩本は裏に東京電力の暗躍を感じたという。なお、岩本が寄稿した『月刊社会党』では革新系の活躍にのみ触れられているが、朝日新聞によると実際には当時の双葉町長、田中清太郎も合併に反対していた。ただ、この一件は岩本にとって原子力発電所(を運営する東京電力)への不信を増すこととなった<ref>朝日新聞いわき支局が取材した双葉、大熊両町の合併話の顛末については{{Harvnb|朝日新聞いわき支局 編.|1980|p=335}}</ref>{{Sfn|岩本忠夫|1975|pp=36}}(山川充夫は合併構想が立ち消えたのは1967年頃としている{{Sfn|山川充夫|1987|pp=160}})。
 
後に岩本に代わって反対同盟代表となる石丸小四郎は元々秋田出身で1964年に勤務先の郵便局同僚との結婚を機会に福島県に異動した。その頃は既に用地の取得が大詰めを超えており、また当時は社会党も原子力発電に賛成していた一方で、そのリスクについても知られていなかったという。石丸は郵便局の組合活動をしていたが、その折に当時[[青年会]]上がりで社会党の双葉地区委員長として活動していた岩本の言葉に感銘し、1965年頃から反対運動の手伝いもするようになった。反対同盟結成前は社会党として反対運動をしていたが、党の上層部は「地区でそういう運動があるならやっても良いよ」というスタンスだった<ref>双葉地方原発反対同盟結成前の活動については{{Harvnb|石丸小四郎|2011|p=52}}</ref>。
 
岩本忠夫が1975年、建設初期の反対運動について回顧した際には
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と観察している<ref>岩本が反対同盟時代に回顧した誘致時の地元および反対派の状況については{{Harvnb|岩本忠夫|1975|p=37}}</ref>。
 
高槻博によれば、[[浜通り]]なかんずく[[夜ノ森駅|夜ノ森]]周辺に本格的な[[反対運動]]生まれ起こっ時期は、[[福島第二原子力発電所]]([[楢葉町|楢葉]]・[[富岡町|富岡]])と浪江・小高原子力発電所の計画が発表された[[1968年]]からであるという。その後、1971年から1973年にかけて、浜通りの各原子力発電所と[[広野火力発電所]]計画に対しても地元の教職員を中核として[[住民団体]]が幾つか結成された。本発電所では「大熊、双葉の環境を良くしよう会」が相当し、各地元組織は合従連衡して1973年9月に「原発・火発反対福島県連絡会」という県レベルの組織をつくった<ref>地元住民団体の結成については{{Harvnb|高槻博|1976|pp=29}}</ref>。
 
岩本、石丸等社会党系の[[労働組合]]などはこれとは別に「双葉地方原発反対同盟」を同時期に結成した。恩田勝亘によれば構成員は小中学校の教員や労組関係者となっている{{Sfn|恩田勝亘|2012|p=67}}。初代委員長は上述のように岩本忠夫で、1971年には県議に当選していた。反対同盟を結成したものの、対象が早期に建設された発電所であるため、[[市民運動]]としての下地はゼロに等しく、初期は社会党の他全日本農民組合連合会、[[日本社会主義青年同盟]]、双葉地方労働組合協議会など総評路線の延長上に反対運動を行っていったという{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=53}}。
 
== 1970年代 ==
[[File:Fukushima I NPP 1975.jpg|thumb|1975年撮影された福島第一原発の空中写真左が[[いわき市|いわき]]側、右[[相馬市|相馬]]側。{{国土航空写真}}]]
=== 運動の確立 ===
1970年代に入ると運転を開始した発電所にて作業員の被曝や機器トラブルが社会問題化し、反対運動にとっては「住民の声が高まり」追い風にもなった{{Sfn|岩本忠夫|1975|p=37}}。
 
こうした運動の展開に取り阻要因であったのは福島、浜通りが[[保守王国]]であり、地縁血縁の「監視網」による圧力が加えられることだったという{{Sfn|高槻博|1976|pp=31}}。
 
そのような状況下、この頃行った活動が[[福島第二原子力発電所]]建設の[[公聴会]]阻止闘争であった。他に変電所への[[変圧器|トランス]]搬入阻止闘争も実施した。当時反対運動が力をつけてきたため、公聴会は双葉郡[[大熊町|大熊]]ではなく[[福島市]]での開催に変更されたという{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=53}}。しかし、高槻博によれば1970年代の住民運動は内部対立を生み、反省しなければならない場面もあったという。一例として、上記公聴会は1973年9月に開催されたが、原発・火発反対福島県連絡会は公聴会に参加して批判意見を表明する方針を取ったものの、双葉地方原発反対同盟は「民主的手続きの仮面をかぶっているだけ」として公聴会を[[ボイコット]]した上、当日会場入り口に[[ピケ]]を張った。この事件の後、岩本忠夫は若年農民層を中心として新組織「双葉農民協議会」を結成し、個人の範囲で出来る運動を目指した{{Sfn|高槻博|1976|pp=30-31}}。岩本によれば「運動自体が労働者階級に向けられていたために地域の中に原発闘争を発起させ、住民運動として組織し得るものにはならなかったのである」としている{{Sfn|岩本忠夫|1975|p=40}}。
 
なお、岩本自身も県議会で多くの原子力発電関連の質問を重ねたが、1975年3月の県議選にて落選し、県議を務めたのは1期に留まった{{Sfn|記者の目|1986|pp=91}}。その後、他地方の社会党県議が原子力問題について質問してくれる事もあったが、「地元でない」[[ハンデ]]は埋め切れなかったという{{Sfn|朝日新聞いわき支局 編.|1980|p=339}}。
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== 岩本離脱後の反対運動 ==
=== 双葉地方原発反対同盟の動き ===
発電所の建設が進展しその金銭的なメリットが地域に享受される中で、一度隆盛した反対運動もしぼみ、[[1980年]]頃にはデモや勉強会にも人が集まらなくなり始めた。その対応策として少人数でも運動が出来るように[[2000年]]頃から街宣車を購入して使用するようになった。一方容認する者が多いとは言え、石をぶつけられたり罵声を吐かれることは無かったという。これは、住民の中に「俺はできないけれどお前は頑張ってくれ」というような潜在的な反対派がいたこと、推進派の中にも「反対派がいないと東京電力が出すものも出さなくなる」という打算の上で反対運動を認めるものもいたという{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=54}}。
 
また、双葉地方原発反対同盟は1979年に[[阪南中央病院]]の村田三郎などを頼って作業員の被曝調査を始め、それをきっかけに作業員の[[労働災害]]認定運動などを始めて行った。石丸によると2011年時点で申請は全国で19件、内福島県が11件で殆どが福島第一原子力発電所関連で、これらの内、反対同盟の関与した申請の中では4件が認定に至っているが、運動側としては「氷山の一角」と認識しているという{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=55}}
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=== 県政への影響 ===
1988年より[[佐藤栄佐久]]が知事になると、原子力で不祥事が発生する度に県政自体が徐々に原子力発電推進に対して懐疑的になっていき、2000年代には反対派の意見を反映することで、反対派は県政に影響を与えるようになった。この過程は佐藤栄佐久自身が『福島原発の真実』にて回顧を行っており、下記の出来事にも影響を与えていくこととなった。
 
=== プルサーマル受入問題 ===
1997年にプルサーマルへの協力要請が国からなされた<ref group="注">プルサーマルへの協力要請は1997年2月に科学技術庁長官、通産大臣、次いで総理大臣の名前で福島、新潟、福井の立地3県知事宛に行われたことが発端であった。これを受け、福島県は「核燃料サイクル懇話会」を約1年間、7回に渡って開催、佐和隆光は懇話会からの参加者で、佐藤栄佐久とは旧知の間柄であったという{{Harv| 寺光忠男 | 松富哲郎 |1998|p=69}}。なお、佐和は第1回懇話会で反対派の論点を「バックエンド対策について国民的合意を得ることが先決であり、それまではモラトリアムとすべき」とまとめ、佐藤栄佐久はこれを受け第2回懇話会で資源エネルギー庁の推進一辺倒の姿勢を批判している{{Harv| 寺光忠男 | 松富哲郎 |1998|p=69}}。</ref>。これに呼応して同年3月には、福島県内でプルサーマルに反対する26の市民団体および個人約100名により「ストップ!プルトニウムキャンペーン」が設立された{{Sfn|寺光忠男 | 松富哲郎 |1998|p=71}}。代表は[[浪江町|浪江]]に在住する元中学社会科教師、林加奈子で、[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]をきっかけに脱原発に目覚め『福島原発30キロ圏・ひとの会』<ref group="注">会の名称はチェルノブイリ事故で30キロ30km圏の住民が強制退去させられたことに由来する{{Harv| 寺光忠男 | 松富哲郎 |1998|p=71}}。</ref>を結成し、講演会、新聞折り込みなどで活動を続けてきたという。林は地域住民が発電所に不満を言わない背景として「地元だから余計に言いにくい(中略)原発内の作業に不安があっても、家族と暮らすために原発で働くことを選ぶ。核のごみをはじめ、将来のことを考える余裕はない」と説明している{{Sfn|寺光忠男 | 松富哲郎 |1998|p=71-72}}。1995年には県議選にも出馬し、石丸小四郎からは「マイクを持ち表立って原発に異議を唱えられるのは、数名の町議会議員を除けば(中略)林加奈子さんだけだろう」と評している{{Sfn|寺光忠男 | 松富哲郎 |1999|p=69}}。
 
「ストップ!プルトニウムキャンペーン」を設立したのは、身動きの取れない双葉群内の懐疑派や潜在的反対派に代わって、活動地域を県レベルに広げる意図があり、事務局の運営は『脱原発福島ネットワーク』の佐藤和良が行っている。このため、1997年11月には[[いわき市]]にてシンポジウムを開き、『MOX燃料の軽水炉利用の社会的影響に関する包括的評価』研究プロジェクトに参加した各国のメンバーを招聘して講演をしてもらい、報告書を福島県に提出するといった活動も行っている{{Sfn|寺光忠男 | 松富哲郎 |1998|p=72}}。なお、1999年に『エネルギー』が取材したところでは、石丸は[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]双葉支部協議会の所属ともなり、「プルサーマル計画に反対する双葉住民会議」(代表は関友幸)の事務局長として機関誌「脱原発情報」を発行していた{{Sfn|寺光忠男 | 松富哲郎 |1999|p=68}}。
 
こうした動きに対して通産省と科学技術庁は1998年1月に大熊で住民参加のフォーラムを開催、東京電力は4月に[[郡山市|郡山]]で説明会を開催したが、佐藤和良は「会場では東京電力の組織動員が目立ちすぎるし、推進側は、反対意見に対して、きちんと答えられない。開催場所を見ると、知事に対するデモンストレーションの意図が明らか」などと批判している。また、「ストップ!プルトニウムキャンペーン」は懇話会へ「市民代表」の参加を求めていたが、実現には至らなかった{{Sfn|寺光忠男 | 松富哲郎 |1998|p=72}}。岩本は懇話会の実施を地域へのプルサーマル理解を進めたという成果があったとして賞賛した{{Sfn|寺光忠男 | 松富哲郎 |1999|p=67}}。
 
なお、[[プルサーマル]]は、本発電所3号機で実施が計画され、懇話会の後一旦佐藤は受入に傾きかけたがその後[[東海村JCO臨界事故]]が発生し再び佐藤栄佐久は不信感を強めることとなった。一方、一部反対運動家([[グリンピース|グリンピースジャパン]]、福島老朽原発を考える会)は、MOX燃料の使用差し止め訴訟を提訴した。裁判は2001年、[[福島地判所|福島地裁]]で争われ、1999年に関西電力のプルサーマルで問題化した、ペレットの品質管理データの不正の有無などが争点であった。原告等の説明によると、東京電力は不正がないことの立証を放棄し、製造元への問い合わせすら拒否し、2001年3月23日の判決では原告の請求は棄却された{{Sfn|鈴木かずえ | 阪上武|2001|p=30-31}}。しかし、佐藤英佐久は「プルサーマル計画について県民の理解は進んでいない」として2001年3月29日、少なくとも2002年夏までは装荷を認めないと明言し、東京電力もMOX燃料の装荷を断念した。なお、原告等は裁判中に県への報告を怠らず、県側も「裁判の行方を注視する」旨を表明していたという。このことを以って、原告等は「法廷闘争の当初の目的は、達せられたのである」とした{{Sfn|鈴木かずえ | 阪上武|2001|p=30}}。
 
=== 7・8号機増設に対する住民投票運動 ===
1999年には、7・8号機の増設に対して(同時期の巻原子力発電所計画で実施された)[[住民投票]]を実現するため「原発増設イエス?ノー?県民投票の会準備会」が発足し、林はその世話人を務めている。一方この時期、社民党はプルサーマルには反対していたものの、増設住民投票に対しては署名が10万人以上集まらなかった場合の打撃を考慮し、不参加を決定した<ref>7・8号機の増設に対する住民投票運動の動きについては{{Harv|寺光忠男 | 松富哲郎 |1998|p=72}}</ref>。
 
これに対して東京電力は[[富岡町|富岡]]に建設したエネルギー館を1999年2月にリニューアルオープンさせ、『エネルギー』は反対運動の活動と対比している。当時の副館長、渡辺正明によると同館は年間7万名が来館しその内県外からは約2万名であったが、リニューアルで10万名に来場者を増やすことを目標としていた{{Sfn|寺光忠男 | 松富哲郎 |1999|p=69}}。
 
なお、佐藤栄佐久は2000年2月8日に副社長の種市健が設備投資の圧縮により、新規電源の開発計画を3~5年凍結すると発表した際、(増設誘致と同時期に計画進行していた既設プラントでの)「[[プルサーマル]]を受け入れなければ福島県の他の発電所の建設もやめるよ」という脅しと解釈し、7・8号機の増設については「私は認めるつもりはなかった」と回顧している{{Sfn|佐藤栄佐久|2011|pp=80-81}}。
 
=== エネルギー政策検討会 ===
2002年5月、折からの東京電力の新規電源開発凍結の発表と上述のプルサーマル受入及び[[核燃料税]]引き上げ問題が暗礁に乗り上げた際、佐藤栄佐久は県内に「エネルギー政策検討会」を設置{{Sfn|佐藤栄佐久|2011|pp=101}}、プルサーマルの必要性の他、委員として原子力発電に是々非々で対応していた[[桜井淳]]、[[佐藤隆光]]、批判的な[[吉岡斉]]などを招聘した。この段階で県政レベルでは、原子力反対派の意見が参考に供され、吉岡、佐藤隆光からは以前より国で実施していた円卓会議を見かけ上の民意聴取であるとして批判された{{Sfn|佐藤栄佐久|2011|pp=110}}。また、県職員によって「地域振興」の検証作業が実施され、もっぱら[[箱物]]にしか使用できない交付金のあり方や7・8号機増設計画のような「ポスト原発は原発」といった固定資産税目当ての地元町村のモノカルチャー化、原子力発電の産業振興効果の少なさなどが指摘されるようになった{{Sfn|佐藤栄佐久|2011|pp=125-129}}。このため経済産業省の担当者と県職員が折衝する際には「おたくの県はなんであんな人物を呼ぶのか」となじられるのが通例だったという{{Sfn|佐藤栄佐久|2011|pp=130}}。
 
=== 佐藤栄佐久辞任後 ===
佐藤栄佐久の辞任後の2009年6月、東京電力はプルサーマルの議論再開を県議会に要請し、翌年本発電所3号機にて実施される地ならしが始まった。この動きに対して、『脱原発福島ネットワーク』他の地元反対運動は7月17日に本発電所関連として下記についての批判と検証を要請した{{Sfn|高橋記者|2009|pp=35}}。
 
#2007年[[新潟県中越沖地震]]で露呈した事前の[[活断層]]調査・情報公開の不備
#使用済みMOX燃料がウラン燃料に比較した処分の困難性から立地自治体で保管され続ける懸念
#2006年の[[耐震基準]]改定に伴って実施された本発電所への耐震バックチェックについて、双葉断層の長さを「過小評価」とし、再循環系配管の耐震強度評価を批判
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なお、この件を報じた『財界ふくしま』は「原発のマチが放射能廃棄物のマチになる日」と見出しを付け、2011年の事故後発行された2011年5月号にて再掲している。
 
== 福島第一原子力電所事故後 ==
[[File:Fukushima I by Digital Globe B.jpg|thumb|爆発後の福島第一原発。2011年3月16日に人工衛星から撮影。]]
{{see also|福島第一原子力発電所事故の影響}}
 
[[2011年]][[3月12日]]の[[福島第一原子力発電所事故|爆発事故]]後石丸も一時秋田の実家に避難していたが、一時帰宅を利用し資料と[[パソコン|PC]]の回収に成功、福島県内(作業員の待機場所となっているいわき市)に戻って活動を再開する意向を表明しており{{Sfn|石丸小四郎|2011|p=57}}、2011年9月より実際に転居し、活発に講演活動を実施しているという<ref>「[http://mytown.asahi.com/akita/news.php?k_id=05000671109200001 反原発運動40年/石丸小四郎さん]」『朝日新聞』2011年9月20日</ref>。事故については地震発生時より危惧しており屋内に放射性物質が侵入しないように目張りをし、すぐに家族を退避、石丸当人は1号機の爆発があった3月12日にその音を聞いた後、晩に退避している{{Sfn|石丸小四郎|2011|pp=50-51}}。事故については「四〇年間使ってきた原発の「実験炉<ref group="注">性急な導入を行ったことに対する石丸の蔑称</ref>」に社会常識から外れることをやってきて、今日の事故を迎えた」と[[電力自由化]]による維持費削減傾向や高経年化を批判し、「規制当局である原子力安全保安院が誘導して起きた事故」「国家的犯罪」としている{{Sfn|石丸小四郎|2011|pp=56}}。
 
[[File:Anti-Nuclear Power Plant Rally on 19 September 2011 at Meiji Shrine Outer Garden 06.JPG|thumb|2011年9月19日に東京で行われた反原発集会の横断幕の一部。]]
また、事故後は反原発運動が活発化し、「一般市民も参加する反原発運動が盛り上がりを見せ」た。これを[[過激派]]は「自派の勢力拡大・浸透の好機と捉え」、「[[プロパガンダ|宣伝活動]]」に取り組み、[[中核派]]中央派は、「反原発団体などが主催した様々な集会に活動家を動員」し、さらに「同派独自の集会・デモ」も実施、「8月には、『すべての原発いますぐなくそう!全国会議』(略称「NAZEN」)を立ち上げ」た<ref>公安調査庁『内外情勢の回顧と展望(平成24年度)』,p.57</ref>。一部の右翼団体も、「『右から考える脱原発集会&デモ』と称して集会・デモを行った」<ref>公安調査庁『内外情勢の回顧と展望(平成24年度)』,p.63</ref>が、逆に、「活発化した反原発運動に対して」、「『左翼に政治利用されている』として抗議活動を実施」した右派もいた<ref>公安調査庁『内外情勢の回顧と展望(平成24年度)』,p.72</ref>。
 
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== 関連項目 ==
*[[福島の原子力発電所と地域社会]]
*[[福島第一原子力発電所事故の影響]](爆発事故後の反対運動についてはこちらも参照)
*[[原子力撤廃]]
*[[NIMBY]]
 
{{デフォルトソート:ふくしまたいいちけんしりよくはつてんしよはんたいうんとう}}
[[Category:福島第一原子力発電所|はんたいうんとう]]
[[Category:東京電力]]
[[Category:日本の原子力史]]
[[Category:福島県の歴史]]
[[Category:福島第一原子力発電所事故浜通り]]