「名誉革命」の版間の差分

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かねてより[[ライハウス陰謀事件]]や[[モンマスの反乱]]鎮圧後の「[[血の巡回裁判]]」によって[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]と弟の[[ヨーク公]]ジェームズは急速に人気を失いつつあった。さらに[[1685年]]、チャールズ2世の後を嗣いで即位したジェームズ2世は、かつて清教徒革命のため[[フランス王国|フランス]]に亡命していた頃に[[カトリック教会|カトリック]]に改宗しており、カトリック教徒を重用してこれに反対していた[[プロテスタント]]の大臣を次々に罷免していた。このため、ほとんどの議員がプロテスタントであり、カトリックの支配に対して敵意を持つイングランド議会と国王との間に対立が深まった。
 
ジェームズ2世がそれまでなかった常備軍を設置するに及んで対立は決定的になったが、議会は王に男子後継者が無かったため、プロテスタントとして育てられ、プロテスタント国[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]の総督であるジェームズ2世の甥の[[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]]に嫁いでいたジェームズ2世の長女[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー]]が後を継ぐことを期待していた。しかし[[1688年]][[6月10日]]、[[メアリー・オブ・モデナ|メアリー]]王妃が王子[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|ジェームズ]]を生んだことにより、ついにジェームズ2世との対決を決意し、ウィレム3世・メアリー夫妻にイングランドへの上陸を要請した。
 
またオラニエ公ウィレム3世の側にも、英国を反フランス・親オランダの側に取り込む目的があった。フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]の領有を狙い[[ネーデルラント継承戦争]]を起こし、次にネーデルラント領有を妨害したオランダへの報復を行い([[オランダ侵略戦争]])、終戦後も[[1681年]]から[[1684年]]にかけて[[ルクセンブルク]]・[[アルザス地域圏|アルザス]]の[[ストラスブール]]を占領して[[ドイツ]]([[神聖ローマ帝国]])の[[プファルツ選帝侯領]]の継承権を主張するなど欧州侵略の野望を露わにしていった。ウィレム3世はフランスを危険視しており、フランス包囲網を築くためには親フランスのイギリスでは具合が悪かった。また、ジェームズ2世に不満を抱いたイングランドの一部の政治家が[[1686年]]からオランダへ渡海、ウィレム3世と接触してクーデターの密議を重ねていた<ref>『イギリス史2』P251 - P254、『スイス・ベネルクス史』P260 - P264、『イギリス革命史(上)』P254 - P261、『イギリス革命史(下)』P16 - P41。</ref>。
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=== イングランド上陸 ===
[[画像:Prince of Orange engraving by William Miller after Turner R739.jpg|thumb|right|250px|イングランドへ向かうオラニエ公]]
[[10月30日|30日]]にウィレム3世はオランダにメアリーを残しオランダ軍2万を率いて出港したが、嵐のため翌[[10月31日|31日]]に一旦引き返した。[[11月11日]]に再度出港、[[11月15日]](イングランドが使用している[[旧暦]]では[[11月5日 (旧暦)|11月5日]])にイングランド西部の[[デヴォン]]海岸に上陸、[[11月17日|17日]]([[11月7日 (旧暦)|11月7日]])に宣言文を配布して国民に広く主張を訴えた。これらの事実を知ったジェームズ2世は議会に譲歩を示したが、既に手遅れだった。
 
この頃、イングランド軍内部ではジェームズ2世に任命されたカトリックの士官に対する不服従が広がり、彼らはオランダ軍と戦おうとはしなかった。[[11月23日|23日]]([[11月13日 (旧暦)|13日]])にジェームズ2世の命令を受けたイングランド軍が[[ソールズベリー]]にやって来たが、指揮官のコーンベリー子爵[[エドワード・ハイド (第3代クラレンドン伯爵)|エドワード・ハイド]](メアリーの母方の従弟、後の第3代[[クラレンドン伯爵]])が翌日の[[11月24日|24日]]([[11月14日 (旧暦)|14日]])に[[エクセター]]のオランダ軍に寝返った。これを受けてジェームズ2世は[[11月27日|27日]]([[11月17日 (旧暦)|17日]])に自ら[[ロンドン]]から出陣して庶子のベリック公[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ジェームズ・フィッツジェームズ]]を[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]に派遣した。しかし、軍議で方針がまとまらず[[12月3日]]([[11月23日 (旧暦)|11月23日]])にロンドンに引き上げると、ジェームズ2世が創設した常備軍の司令官[[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]が脱走、戦わずしてオランダ軍に投降した。
 
オランダ軍がロンドンに迫ると、[[12月4日|4日]]([[11月24日 (旧暦)|11月24日]])にジェームズ2世の次女でやはりプロテスタントとして育てられていた[[アン (イギリス女王)|アン]]の夫である[[デンマーク]]王子[[ジョージ (カンバーランド公)|ジョージ]]がオーモンド公[[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]]と共に脱走、[[12月6日|6日]]([[11月26日 (旧暦)|11月26日]])にはアンがチャーチルの妻で女官[[サラ・ジェニングス]]やコンプトンの手引きでロンドンから姉の夫であるウィレム3世のもとに逃亡し、夕方にロンドンへ戻ったジェームズ2世は衝撃を受けて孤立していった。ポーツマスにいたベリックとイングランド艦隊も抗戦を諦め、オランダ軍は東進しながら支持者を集めていった<ref>『イギリス革命史(下)』P56 - P79。</ref>。
 
=== ジェームズ2世の亡命 ===
不利を悟ったジェームズ2世は、重臣のハリファックス侯[[ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯)|ジョージ・サヴィル]]とゴドルフィン男爵[[シドニー・ゴドルフィン (初代ゴドルフィン伯)|シドニー・ゴドルフィン]]・ノッティンガム伯[[ダニエル・フィンチ (第2代ノッティンガム伯)|ダニエル・フィンチ]]の3人をウィレム3世の元へ派遣、交渉による妥協を見出そうとした。一方で[[12月20日]]([[12月10日 (旧暦)|12月10日]])にまず王妃と王子をフランスに亡命させ、翌日の[[12月21日|21日]]([[12月11日 (旧暦)|11日]])に自らも亡命に走ったが、[[ケント (イングランド)|ケント]]で捕らえられた。王が何の抵抗もせず亡命に走って捕らえられたことは議会側には思いもかけない展開であったが、議会はメアリーの立場を重んじて王を処刑せずそのまま留め置いた(処刑すれば[[殉教者]]として同情が集まるという判断もあった)。
 
ジェームズ2世不在のロンドンは不穏な空気に包まれ、ジェームズ2世の義弟(メアリーとコーンベリーの叔父)に当たるロチェスター伯[[ローレンス・ハイド (初代ロチェスター伯爵)|ローレンス・ハイド]]がロンドンに貴族・聖職者を集めて暫定政権を発足、抵抗する拠点にはオランダ軍との交戦を禁じる通達を送り、ウィレム3世の宣言通りに自由な議会を開くことを約束、ウィレム3世の到着までに治安維持に務めた。ウィレム3世と交渉した3人は21日にロンドンへ戻り暫定政権に加わり、ハリファックスが議長となり引き続き事態の収拾に努め、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]まで進軍したウィレム3世との交渉を経てジェームズ2世の再度の亡命を認めた。
 
[[12月22日|22日]]([[12月12日 (旧暦)|12日]])、ジェームズ2世の側近である近衛騎兵隊長のフェヴァシャム伯[[ルイス・ド・デュラス (第2代フェヴァシャム伯)|ルイス・ド・デュラス]]はジェームズ2世の命令を受けて軍隊を解散させたが、武装解除していなかったためかえって不穏な状態となり、暫定政権は兵に復員を呼びかけねばならなかった。一方、イングランド艦隊司令官のダートマス男爵[[ジョージ・レッグ (初代ダートマス男爵)|ジョージ・レッグ]]は[[12月24日|24日]]([[12月14日 (旧暦)|14日]])に暫定政権の指示を受け取り交戦を停止、陸海軍は両方共オランダ軍への抵抗を止めた。
 
ジェームズ2世は[[12月26日|26日]]([[12月16日 (旧暦)|16日]])にロンドンへ帰還、ウィレム3世とロンドンでの会見を提案したが、ウィレム3世とその支持者達はおろか暫定政権も中途半端な妥協は認めない姿勢を取り、ジェームズ2世の手紙をウィレム3世に渡したフェヴァシャムは一時ウィンザーで捕えられている。そして、ジェームズ2世は[[12月28日|28日]]([[12月18日 (旧暦)|18日]])にウィレム3世の要請でロンドンを退去、5日後の[[1689年]][[1月2日]]([[12月23日 (旧暦)|12月23日]])にフランスへ亡命、ウィレム3世は28日にジェームズ2世退去後のロンドンへ入った<ref>『イギリス史2』P255、『スイス・ベネルクス史』P264 - P265、『イギリス革命史(下)』P79 - P98。</ref>。
 
== 新国王の即位 ==
{{君主主義}}
1689年[[2月1日]]([[1月22日 (旧暦)|1月22日]])に仮議会が召集され今後の王位継承に向けた話し合いが行われた。議会側は当初メアリーの単独即位を望んでいたが、既にロンドンを制圧してイングランドを軍事的に支配下においたウィレム3世がそれを不服とし、メアリーの従兄で[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の外孫でもある自身にも王位を要求したので、両者の共同統治と決まった。ここにウィレム3世はオランダ統領を兼ねたまま、ウィリアム3世としてイングランド王にも即位することになった。
 
[[2月23日]]([[2月13日 (旧暦)|2月13日]])、ウィリアム3世とメアリー2世は即位すると、王位に対する議会の優位を認めた「権利の宣言」に署名し、同年「[[権利の章典]]」として発布された。合わせて革命の功労者に対する恩賞が与えられ、主だった人物は爵位と官職を与えられ[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]・[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の党員が混在した政権が発足することになる。一方で常備軍は1年ごとに確認される議会の同意なしに維持出来ないことになり、宗教でも[[イングランド国教会]]以外のプロテスタントに一部寛容が認められた。
 
対フランス戦争に向けてオランダとイングランドの軍事行動も取り決められ、陸軍の比率はオランダが5でイングランドは3、海軍は逆にオランダが3、イングランドは5とされた。海軍の共同作戦ではイングランドの提督が指揮を執ることになり、敵国フランスとオランダの貿易も禁止された。海上でイングランドが優勢になる一方、オランダはこれらの政策で海洋国家としての勢いを抑えられ凋落のきっかけとなっていった<ref>『イギリス史2』P255 - P257、『スイス・ベネルクス史』P265 - P266、『イギリス革命史(下)』P99 - P116。</ref>。
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*[[今井宏 (歴史学者)|今井宏]]編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』[[山川出版社]]、1990年。
* [[森田安一]]編『新版 世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年。
* [[友清理士]]『イギリス革命史(下)』[[研究社]]、2004年。
 
== 関連項目 ==