「梅ヶ谷藤太郎 (初代)」の版間の差分

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|体重 = 120kg
|BMI =
|所属部屋 = 湊部屋(大坂)→玉垣部屋
|得意技 = 筈押し、突っ張り、左四つ、寄り
|現在の番付 = 引退
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|生涯戦歴 =
|幕内戦歴 = 116勝6敗18分2預78休
|優勝 = 優勝相当成績:99
|賞 =
|初土俵 = [[1871年]]4月場所
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== 経歴 ==
1845年3月16日に、筑前国上座郡志波村梅ヶ谷で生まれる。にわかには信じがたいが赤子の頃から[[石臼]]を引き摺るほどの怪童で、母乳や菓子より酒を欲しがったため、酒で育てられたという。7歳で大坂相撲に引き取られて「梅ヶ枝」を名乗るが、その後に湊部屋へ入門する。入門と同時に四股名を、故郷・志波村梅ヶ谷に因んで「梅ヶ谷」とする。明治維新後の[[1869年]]3月場所に大坂相撲で新入幕を果たし、いきなり[[小結]]となる。[[大関]]になったあと、[[1870年]]の暮れに東京相撲へ加入して玉垣部屋に所属するが、[[本中]]<ref>[[序ノ口]]より下、現在でいう[[前相撲]]に当たる。</ref>に据えられてしまう。[[陣幕久五郎]]が大坂にいたことで、大坂から来た力士は誰とも構わず嫌われていたこともあるが、当然ながらこの地位では敵などおらず連戦連勝、[[1874年]]12月場所で新入幕を果たすと、8勝1分の優勝相当成績を挙げた。
 
[[1876年]]には福岡県で興行を行っていたところへ[[秋月の乱]]に遭遇、力士と反乱氏族の戦闘になったが、梅ヶ谷は動じずに平定に活躍して争いを収めた。[[1877年]]6月場所に[[小結]]、12月場所に[[関脇]]になると両方で全勝を挙げ、[[1879年]]1月場所の新大関昇進を挟んで、[[1880年]]5月場所でも全勝を挙げる。この間、1876年 - 1881年にかけて58連勝(分・預・休は除く)を記録し、[[若嶌久三郎]]に敗れて記録が一度止まるも、[[1884年]]5月場所まで35連勝を記録した。
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巨体とも伝わるが、実際には歴代横綱の中で小柄な方。右上手を浅く引きつけ、左は筈かのぞかせて寄る堅実な取り口だったとされている。
 
前述の通り58連勝を記録するなど、明治前期の相撲黄金時代を支えた第一人者である。[[20102012]]現在でも[[双葉山定次]]の69連勝、[[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助]]・[[白鵬翔]]の63連勝に次ぐ歴代4位の記録だが、当時は連勝記録への関心が薄く、ほとんど取り上げられなかった。赤子時代の逸話はこの強さから生み出された後世の創作かもしれない。
 
== エピソード ==