「原マルティノ」の版間の差分

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[[ローマ]]に残された資料から彼は肥前国波佐見の生まれであったと思われ、大村領の名士の子であったと考えられている。両親共に[[キリスト教]]徒であった彼は[[司祭]]を志して、有馬の[[セミナリヨ]]に入った。
 
巡察師として日本を訪れた[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャー二)]]は、キリシタン大名であった[[大村純忠]]と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直すため、また次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節を[[ローマ]]に派遣しようと考えた。
 
そこでヴァリニャーノに白羽の矢をたてられたのが、セミナリヨで学んでいた四人の少年たちであった。その選考基準は容姿端麗で、長旅に耐える健康を備え、語学や勉学においてすぐれていることであった。また正使の二人はあくまでキリシタン大名の名代ということで、彼らとの血縁にあたるものが選ばれているが、副使に関してはそこまで厳密に血縁は問われなかったようである。
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