「ブダペスト包囲戦」の版間の差分

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1944年10月29日、ソビエト赤軍はブダペストへの攻撃を開始し、2つに分けられた1,000,000名以上のソビエト赤軍将兵は迅速にブダペストへと進撃した。ソビエト赤軍の作戦はドイツ軍・ハンガリー軍の残存部隊をブダペストから駆逐することであり、1944年11月7日、ソビエト赤軍・ルーマニア軍はブダペスト旧市街東20キロ郊外に達していた。12月19日、休養と再編成の後、ソビエト赤軍は攻撃を再開、[[12月26日]]には最後に残っていた連絡路であるブダペスト・[[ウィーン]]間街道をソビエト赤軍が切断、このためブダペストは包囲されることとなった。この一連の攻勢によりハンガリー「国民指導者 (Nemzetvezető)」サーラシ・フェレンツはすでに[[12月9日]]にブダペストから逃亡した。
 
ブダペスト包囲網下に残ったのはドイツ将兵33,000名、ハンガリー将兵37,000名、民間人800,000名。ドイツ[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]はブダペストを要塞都市と宣言、包囲網の突破脱出を禁じ、第9SSアルペン軍団司令官{{仮リンク|カール・フォン・プフェッファーヴィルデンブルッフ|en|Karl Pfeffer-Wildenbruch}}親衛隊大将を守備隊の最高指揮官に任命した。
 
バルカ{{仮リ半島北ク|東央ヨーロッパ|en|East-Central Europe}}最大都市であるブダペストは[[ヨシフ・スターリン]]の大きな目標であり、ヤルタ会談の開催が近づきつつある中、スターリンはイギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]とアメリカ大統領[[フランクリン・ルーズベルト]]に彼の力を誇示したいと考えていた<ref>Deak, István, ''Endgame in Budapest'', Hungarian Quarterly, Autumn 2005</ref>。
 
1944年[[12月29日]]、包囲網完成を受けてソビエト第2ウクライナ方面軍司令官マリノフスキーはブダペストに降伏を勧告するために特使2名を派遣した。しかし特使は戻ることは無かった。このことについては、特使がソ連軍により故意に射殺されたとドイツ・ハンガリーの歴史家の一部は主張しており、この点についてはソ連内でも広い議論が存在している。また、他の意見では特使らは帰り道の途中、誤射されたと主張しているが、いずれにせよ、これを降伏の拒絶と判断したソビエト赤軍は攻略戦の開始を命令した。
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