「法相宗」の版間の差分

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* [[658年]](斉明天皇4年) 入唐した'''[[智通]]'''・'''[[智達]]'''等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、[[平城京|平城右京]]に[[元興寺]]が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。
* [[703年]](大宝3年) [[智鳳]]、[[智雄]]らが入唐した。
* [[717年]](養老元年) 入唐した[[義淵]]の弟子[[玄ボウ|玄昉]](げんぼう)も、ともに[[濮陽]]の[[智周]]に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。
* 8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では'''[[賢憬]]'''(けんけい、けんきょう)、'''[[修円]]'''、'''[[徳一]]'''などが傑出し、修円は同寺内に'''伝法院'''を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。徳一は[[天台宗]]の[[最澄]]との間で[[三一権実諍論]](さんいちごんじつのそうろん)で争った。
元興寺には[[護命]](ごみよう)、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。平安末期以降にも[[蔵俊]]、[[貞慶]]、[[覚憲]]、[[信円]]らが輩出した。
 
[[1882年]]に[[興福寺]]、[[薬師寺]]、[[法隆寺]]の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は[[聖徳宗]]を名乗って離脱(1950年)し、また京都の[[清水寺]]も法隆寺と同様に[[北法相宗]]として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。