「レオポルト (アンハルト=ケーテン侯)」の版間の差分

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親政を始めた22歳のレーオポルトは、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]を自らの宮廷楽団の[[楽長]]に任命した。レーオポルトのこの作曲家との交友は[[1716年]][[1月24日]]の妹の結婚式にまでさかのぼることができるだろう。バッハはこの時[[ヴァイマル]]のエルンスト・アウグスト1世公([[:en:Ernest Augustus I, Duke of Saxe-Weimar-Eisenach|Ernst August I.]])に随行してニーエンブルクを訪れたのだった。[[1717年]]初頭までシュトリッカーが[[宮廷楽長]]を務め、シュトリッカーがケーテンを去った後[[1717年]][[8月5日]]にはバッハがケーテンとの契約を交わしていた。しかしヴァイマルで退職願を申請していなかったため、しばらくの間拘禁されることとなった。年が変わって1718年、バッハはようやくケーテン宮廷楽長の任についたのだった。
 
音楽への関心を持つ若き侯爵のおかげで(彼はオーケストラで時折みずからヴァイオリンを手にした)ケーテン時代はヨーハン・ゼバスティアン・バッハにとって最も実り多き時代となった。この地で数多くの器楽曲、協奏曲、『[[ブランデンブルク協奏曲]]』の大部分、『[[平均律クラヴィーア曲集]]』第1巻、そして多くの[[管弦楽組曲]]が誕生した。レーオポルト侯はバッハの夭折した息子レーオポルト・アウグストの誕生の際に名付け親として立会い、[[1723年]]にバッハが立ち様々な事情からライプツィヒへ去った後も彼との親交を続けた。
 
その後ニーエンブルクの母やヴァルムスドルフにいるアウグスト・ルートヴィヒとの間で繰り返し争いを抱えた。したがって[[1718年]](または[[1719年]])、レーオポルトは軍隊を二人の土地に送り、レーオポルトの紋章を取り付けさせた。しかし母はレーオポルトの紋章をすぐに取り外させた。この侮辱に対し、レーオポルトは[[1721年]]、ニーエンブルクに再度軍隊を送り、紋章を再び取り付けさせ、そこの地方弁護士ヨーハン・ヤーコプ・ランゲマッハを逮捕させた。アンハルト=ベルンブルクの向こうに位置する飛び地ヴァルムスドルフにも軍隊は送られ、アウグストの依頼で職務を行っていた5人の裁判官が逮捕された。[[1722年]]8月、レーオポルトはアウグスト・ルートヴィヒと和議を結んだ。ただし母とは和解できなかった。