「小野川喜三郎」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2010年9月}}
{{Infobox 力士
[[画像:Onogawa Kisaburo.jpg|thumb|小野川喜三郎]]
|名前 = 小野川 喜三郎
'''小野川 喜三郎'''(おのがわ きさぶろう、[[1758年]]([[宝暦]]8年) - [[1806年]][[4月30日]](旧暦[[文化 (元号)|文化]]3年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]))は、[[大相撲]]の江戸相撲の[[力士]]。5代[[横綱]]。[[近江国]]([[大津市]])京町出身。本名は川村喜三郞。
|画像 = [[画像:Onogawa Kisaburo.jpg|thumb|小野川喜三郎250px]]
|説明 = 小野川喜三郎(左)
|四股名 = 小野川 喜三郎
|本名 = 川村 喜三郞
|愛称 =
|生年月日 = [[1758年]]
|没年月日 = [[1806年]][[4月30日]]
|出身 = [[近江国]]京町(現・[[滋賀県]][[大津市]])
|身長 = 176cm
|体重 = 135kg
|BMI =
|所属部屋 = [[久留米藩]](江戸相撲)
|得意技 =
|現在の番付 = 引退
|最高位 = 第5代[[横綱]]
|生涯戦歴 =
|幕内戦歴 = 144勝13敗4分10預3無40休
|優勝 = 優勝相当成績7回
|賞 =
|初土俵 =
|新十両 =
|入幕 =
|引退 =
|引退後 =
|他の活動 =
|趣味 =
|備考 =
|作成日時 = 2012年
}}
 
'''小野川 喜三郎'''(おのがわ きさぶろう、[[1758年]]([[宝暦]]8年) - [[1806年]][[4月30日]](旧暦)は、[[文化 (元号)|文化近江国]]3年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]))は、京町(現・滋賀県大津市)出身の元[[大相撲]]の江戸相撲の[[力士]]。5代[[横綱]]。[[近江国]]([[大津市]])京町出身。本名は'''川村 喜三郎'''(かわむら きさぶろう)
==来歴==
[[寛政]]元年([[1789年]])11月、[[吉田司家]]の19世・吉田追風から[[谷風梶之助 (2代)|谷風]]とともに横綱を免許された。これが事実上、現在に至る横綱制度の始まりである。将軍[[徳川家斉]]が観戦した寛政3年([[1791年]])[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]谷風と[[上覧相撲]]をおこなうなど寛政の繁栄期を築いた。
 
== 来歴 ==
初代[[小野川 (年寄名跡)|小野川]]の養子となって[[大坂相撲]]で初土俵を踏み、のちに江戸相撲に合流した。江戸では[[久留米藩]]のお抱えだった。
初代[[小野川 (年寄名跡)|小野川]]の養子となって[[大坂相撲]]で初土俵を踏み、のちに江戸相撲に合流、[[久留米藩]]の抱えとなった。[[1782年]]3月場所7日目には、当時大関だった[[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助]]の63連勝を止める殊勲の星を上げた。これ以降、谷風梶之助と小野川喜三郎の取組は、相撲史上に残る名勝負として現在まで語り継がれている。その功績が認められた形で、1789年に[[吉田司家]]から谷風梶之助とともに横綱免許を授与された(事実上、現在に至る横綱制度の始まり)。[[1791年]][[6月11日 (旧暦)|6月11日]]には[[徳川家斉]]の上覧相撲が行われ、徳川家斉のリクエストによって谷風梶之助との対戦が組まれた。両者は変わらない熱戦を繰り広げて徳川家斉を喜ばせるなど、寛政の相撲繁栄期を築いた。
 
小野川が1806年に亡くなってから1828年3月に阿武松が横綱免許を授与されるまでの約22年間、'''横綱経験者が全て存命していない状態'''になっていた。これは(2012年現在まで唯一である
[[天明]]2年([[1782年]])3月場所7日目、当時大関である谷風の63連勝を、二段目の小野川が止めた。谷風と小野川の取組は、大相撲史上に残る名勝負として語り継がれている。
体躯、膂力にすぐれる谷風に対して、慎重な取り口と技巧で対抗した。そのために作戦的な立ち合いも多く、江戸の庶民の人気は薄かった。しかし、谷風、[[雷電爲右エ門|雷電爲右衞門]]の両強豪に挟撃されながらも歴代でも一級の戦績を残した。「大相撲史上最強のナンバー2」と評される。ちなみに雷電との対戦は小野川が最盛期を過ぎた頃で、江戸では一度も勝てなかった。
 
2012年現在、「[[小野川 (年寄名跡)|小野川]]」という名前は[[日本相撲協会]]が所有する[[年寄名跡]]のひとに数えられ元[[前頭]]9枚目[[北桜英敏|北桜]]が襲名している。所有者は日本相撲協会理事長である[[北の湖敏満|北の湖]](日本相撲協会理事長)
通算成績は幕内23場所144勝13敗4分10預3無勝負40休、勝率9割1分7厘。優勝相当成績7回。
 
体格は身長176センチ、体重135キロと伝わる。
== 人物 ==
体躯、膂・筋力にすぐれる谷風梶之助に対して、慎重な取り口と技巧で対抗した。そのために作戦的な立ち合いも多く、江戸庶民の人気は薄かった。しかし、谷風梶之助・[[雷電爲右エ門|雷電爲右衞門]]の両強豪に挟撃されながらも歴代でも一級の戦績を残したことで、現在では「大相撲史上最強のナンバー2」と評される。ちなみに雷電との対戦は小野川喜三郎盛期を過ぎた頃に対戦して、江戸では一度も勝てなかった。
 
横綱免許授与後最も多く使用した四股名は「小野川喜三郎」だが、[[大関]]の時(当時は横綱免許と番付は無関係)は'''小野川才助'''と書かれていた。
 
== 主な成績 ==
小野川が亡くなってから1828年3月に阿武松が横綱を免許されるまでの約22年間、横綱経験者が全て存命していない状態になっていた。これは現在まで唯一である。
* 幕内通算成績:144勝13敗4分10預3無40休 勝率.917(23場所)
 
* 優勝相当成績:7回
現在、「[[小野川 (年寄名跡)|小野川]]」は[[日本相撲協会]]の[[年寄名跡]]のひとつで、元[[前頭]]9枚目[[北桜英敏|北桜]]が襲名している。所有者は[[北の湖敏満|北の湖]](日本相撲協会理事長)。
 
== 関連項目 ==
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{{歴代横綱|5代|[[1789年]]11月 - [[1798年]]10月}}
{{sumo-stub}}
 
{{DEFAULTSORT:おのかわ きさふろう}}
[[Category:滋賀県出身の大相撲力士]]