「オラドゥール=シュル=グラヌ」の版間の差分

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フランス当局の見解は2つに割れていたが[[1954年]][[2月11日]]、20人の被告に対し有罪が言い渡された。これに対しては大論争が巻き起こったため、[[2月19日]]にフランス議会において全てのアレマン人を恩赦とする決定がなされた。その後、時をおかずしてアレマン人は釈放された。
 
[[1958年]]までにドイツ人被告も同様に全員釈放された。レジスタンスに対する攻撃命令を下したダスライヒ指揮官カール・ハインツ([[:de:Heinz Lammerding]])は[[1971年]]、企業家として成功したその生涯を閉じた。彼が起訴されることは一度もなかった。
 
武装親衛隊に対する最後の公判は[[1983年]]に行われた。その少し前、SS中尉[[ハインツ・バールト]]([[:de:Heinz Barth]])が[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]](当時)領内で捕らえられた。バールトはオラドゥールでの虐殺に小隊指揮官として参加し、45名の兵を率いていた。彼は男性20名に対する射撃指示をだしたとされ、ベルリンにある裁判所で終身刑を言い渡された。[[1997年]]、バールトは統一後の[[ドイツ]]で釈放された。
 
戦後、[[シャルル・ド・ゴール]]はオラドゥールを再建しないことを決めた。ナチス占領の残忍さを後世に伝えるために当時のままにとどめようとしたのである。[[1999年]]には、フランス大統領[[ジャック・シラク]]がオラドゥールを訪問する人々にこの村が経験した惨劇を伝えるためのメモリアル・センター(サントル・ド・ラ・メモワール、''Centre de la mémoire'')を開設した。