「中華革命党」の版間の差分

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'''中華革命党'''(ちゅうかかくめいとう)は、[[第二革命]](1913年7月-9月)の失敗を受けて、1914年7月8日(成立大会。これに先行して、6月23日には、選挙大会で[[孫文]]が総理となった)に、孫文が、亡命先の東京にて結成した革命団体(秘密結社)。党の性格から考えると、[[国民党 (宋教仁)|国民党]]の後継ではなく、中国同盟会の復活ともいえる。参加者は、不明瞭な点もあるが、[[胡漢民]]、[[陳其美]]、[[居正]]、[[朱執信]]、[[廖仲愷]]、[[許崇智]]、[[張人傑]]、[[載季陶]]、[[謝持]]、[[汪兆銘]](成立時には渡欧していたため、その時点では参加していないが、その後参加。しかし、ある程度距離を取っていたとの説もある)、[[馮自由]]、[[周応時]]、[[楊庶堪]]、[[蒋介石]]らで、総勢300人とも600人ともいわれる。
 
[[辛亥革命]]後、[[宋教仁]]の暗殺、それに続く[[第二革命]]の失敗により、旧[[中国同盟会]]のメンバーの多くは、日本への亡命を余儀なくされた。また、中国同盟会を受け継いだ[[国民党 (宋教仁)|国民党]]の解散(1913年11月4日に、[[袁世凱]]の解散命令)という状況下で、新しい団体の結成による革命勢力の建て直しが急務となった。
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前述の五四運動を目の当たりにした孫文が、革命エリートではない一般国民による民主化運動の可能性および実効性を十分に認識したことを受けて、1919年10月に、中華革命党は、国民政党である[[中国国民党]]へと発展的に解消(改組・改称)されることになる。
 
なお、団体名称に、中国同盟会においては日本の官憲による取締りを恐れてあえてはずしていた、「革命」という言葉を使っていることにつき、孫文の追い詰められた状況が反映されているとする見方もある。また、「中国」ではなく「中華」という言い方をしていることについては、その理由はよくわかっていない。
 
また、機関誌としては、1919年8月に上海で創刊した月刊誌『建設』があるが、この時点は、上記の通り、活動停止宣言後であり、また、創刊後まもなく、1919年10月に中国国民党となり、そこに引き継がれていることから、実質的には、中国国民党の機関紙であるとも言える。