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== 歴史 ==
* [[紀元前600年]] - [[ヘロドトス]]が『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』の中で伝える処に依ると、[[エジプト第26王朝]]のファラオ・[[ネコ2世]]の命で[[フェニキア人]]が[[アフリカ周航]]<ref>[[プント国]]との貿易のためにナイル川から紅海への運河建設試みたが失敗し、天然の海洋航路の探検を行なわせた。</ref>を行なった。フェニキア人らは3年がかりでこれを成し遂げ、南アフリカで天頂の北側に真昼の太陽を見たと報告している。ヘロドトスの時代の(北半球の)世界観では、太陽がこのように運行することは考えられず、この話は信じられないと記している。しかし、現在ではこの話が逆に海洋航路の探検に信憑性を持たせている。
* [[1488年]] - [[ポルトガル]]人[[バルトロメウ・ディアス]]が到達したものの、周辺があまりにも荒れる海域であったため、Cabo Tormentoso(「嵐の岬」)と命名<ref name="zatsugakuomoshirojiten_p213"> 管野浩編 『雑学おもしろ事典』 p.213 日東書院 1991年</ref>。しかし、この航路の発見は香辛料貿易のルート短縮につながったため、後にポルトガル王[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]が「希望の岬」(Cabo da Boa Esperança)と改めさせている<ref name="zatsugakuomoshirojiten_p213"/>。
* [[1652年]] - [[オランダ東インド会社]]の[[ヤン・ファン・リーベック]]が植民、後の[[ケープタウン]]となる。当時、周辺に居住していた先住民族は「ホッテントット」<ref>現在、この呼称は蔑称となっている。</ref>と[[オランダ人]]から呼ばれたが、現在は[[コイコイ人]]と呼ぶ
* [[1806年]] - [[ナポレオン戦争]]中に[[イギリス]]が接収し、[[1814年]]の[[ロンドン条約 (1814年)|英蘭協定]]でイギリス領となる。