「ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領」の版間の差分

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東村愛 (会話 | 投稿記録)
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== 歴史 ==
[[1235年]]、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]は[[ヴェルフ家]]の[[オットー1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|オットー1世]]にブラウンシュヴァイク=リューネブルク公爵位を与えた。これがブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の成立である。オットー1世の長男[[アルブレヒト1世 (ブラウンシュヴァイク公)|アルブレヒト1世]]と次男[[ヨハン (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|ヨハン]]は[[1269年]]にこの領国を分割、アルブレヒト1世は[[ブラウンシュヴァイク]]、[[ヴォルフェンビュッテル]]、[[アインベック]]、[[グルベンハーゲン]]、[[ゲッティンゲン]]を領有、この領土がブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領となった。ヨハンの領土は[[リューネブルク侯領]]と呼ばれる。以後もヴォルフェンビュッテル系は所領分割を繰り返し、その過程で[[グルベンハーゲン侯領]]、[[ゲッティンゲン侯領]]と分かれていった。
 
[[1369年]]にヨハンの子孫は断絶、アルブレヒト1世の子孫の[[マグヌス2世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|マグヌス2世]]は遺領を巡って[[ザクセン=ヴィッテンベルク]]を治める[[アスカーニエン家]]と争った([[リューネブルク継承戦争]])。マグヌス2世は敗死、リューネブルク侯領はアスカーニエン家が獲得したが、[[1388年]]にマグヌス2世の2人の息子[[ベルンハルト1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|ベルンハルト1世]]、[[ハインリヒ1世 (ブラウンシュヴァイク公)|ハインリヒ1世]]兄弟が領有した。その後2人は領土交換を度々行い、結果としてリューネブルクはベルンハルト1世の子孫が、ヴォルフェンビュッテルはハインリヒ1世の子孫が治めることが決定した。[[1463年]]にハインリヒ1世の息子[[ヴィルヘルム1世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ヴィルヘルム1世]]は断絶したゲッティンゲン侯領も獲得した。