「アルブレヒト1世 (ブラウンシュヴァイク公)」の版間の差分

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[[file:Albrecht1.jpg.jpg|right|thumb|200px|ブラウンシュヴァイク公アルブレヒト1世]]
'''アルブレヒト1世'''(Albrecht I, [[1236年]] - [[1279年]][[8月15日]])は[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク]][[ブラウンシュヴァイク君主一覧|公]]の1人で、[[ヴェルフ家#ヴェルフ=エステ家|ヴェルフ家]]出身のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(在位:[[1252年]] - [[1269年]])、[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領|ヴォルフェンビュッテル]][[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル君主一覧|侯]](在位:1269年 - 1279年)。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公[[オットー1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|オットー1世]]と[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]][[ブランデンブルク統治者の一覧|辺境伯]][[アルブレヒト2世 (ブランデンブルク辺境伯)|アルブレヒト2世]]の娘マティルドの長男で、[[リューネブルク侯領|リューネブルク]][[リューネブルク君主一覧|侯]][[ヨハン (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|ヨハン]]の兄。後の[[ハノーファー王国|ハノーファー王家]]、[[イギリス]]王家([[ハノーファー朝]])などの男系祖先である
 
1252年の父の死後、その領土を弟のヨハンと共に統治した。[[ゾフィー・フォン・ブラバント]]と[[マイセン辺境伯]][[ハインリヒ3世 (マイセン辺境伯)|ハインリヒ3世]]の[[テューリンゲン州|テューリンゲン]]を巡る争いについては、アルブレヒト1世はゾフィーの娘エリーザベトと結婚していた縁でゾフィー側に立ち参戦したが、[[1263年]]のベーゼンシュテットの戦いに敗れて捕虜になった。その後解放されたが、テューリンゲンはハインリヒ3世が所有する事になった。
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[[1260年]][[9月]]に[[ハーメルン]]や[[アエルツェン]]を中心に勢力を持っていた[[エーファーシュタイン家|エーファーシュタイン]]伯家の[[コンラート4世 (エーファーシュタイン家)|コンラート4世]]を討伐し、各城を攻略してその影響力を徐々に弱めた。
 
[[1267年]]、ヨハンが所領分割を要求、アルブレヒト1世は1269年にこれを受け入れ、ヨハンは北部の[[リューネブルク]]と[[ツェレ]]と[[ハノーファー]]を、アルブレヒト1世は南部の[[ブラウンシュヴァイク]]、[[グルーベンハーゲン]]、[[カレンベルク]]、[[ヴォルフェンビュッテル]]、[[ヘルムシュタット]]、[[ハルツ山地]]、[[ゲッティンゲン]]を領有する事になった。
 
1279年死去。遺体はブラウンシュヴァイク大聖堂に埋葬、領土は3人の息子の共同統治となった。