「雲林院」の版間の差分
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光源氏が朧月夜に逢ったのは宮中の桜花の宴、ほか推敲、Wikipedia:表記ガイドに基づき読み仮名付す |
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[[ファイル:Unrin'in01.JPG|thumb|250px|雲林院門前 紫野雲林院町から撮影]]
[[ファイル:Unrin'in02.JPG|thumb|200px|雲林院境内に残る観音堂]]
'''雲林院'''(うんりんいん<ref>周辺の地名'''紫野雲林院町'''は、「'''むらさきのうんりんいんちょう'''」と呼ばれる。</ref>、うりんいん)は、[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]][[紫野]]にある
== 概要 ==
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[[869年]]([[貞観 (日本)|貞観]]11年)親王が亡くなった後、僧正[[遍昭]]に託し、ここを[[官寺]]「雲林院」とした。[[884年]]([[元慶]]8年)、遍昭はこれを花山[[元慶寺]]の別院とし、[[年分度者]]3人を与えられて天台教学を専攻。その後、[[鎌倉時代]]までは天台宗の官寺として栄え、菩提講・桜花・[[紅葉]]で有名であった。
雲林院の菩提講は、『[[今昔物語集]]』、『[[大鏡]]』にも登場する。雲林院は桜と紅葉の
鎌倉時代に入って衰退したものの、[[1324年]]([[正中 (日本)|正中]]元年)に復興され、大徳寺付属の子院となった。以後は禅寺となったが、[[応仁の乱]](1467年-1477年)の兵火により廃絶してしまった。
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かつて雲林院境内にあった大徳寺塔頭の[[真珠庵]]に「紫式部産湯の井戸」がある。[[紫式部]]はこの周辺で生まれ育ったとされ、その名も、雲林院の建つ紫野に由来するといわれている<ref>[http://www.hal-kyoto.com/ki/kyosikai/q_and_a/unrinin/index.html 京都の史跡Q&A 雲林院(うんりんいん)について教えてください。]</ref>。
『[[源氏物語]]』
紫式部自身の墓所
== 発掘調査 ==
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