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{{基礎情報 過去の国
|略名 =
|日本語国名 =元老院ならびにローマ市民
|公式国名 ='''{{Lang|la|Senatus Populusque Romanus}}'''
|建国時期 =[[紀元前753年]]
|亡国時期 =[[1453年]]
|先代1 =:en:Etruscan civilization|エトルリア人の文明
|先旗1 =Vergiasun.svg
|先代2 =
|先旗2 =Vergiasun.svg
|先代3 =
|先代4 =
|先代5 =
|先代6 =
|先代7 =
|先代8 =
|次代1 =オスマン帝国
|次旗1 =Ottoman Flag.svg
|次代2 =イスラム帝国
|次代3 =東ゴート王国
|次代4 =西ゴート王国
|次代5 =ブルグント王国
|次代6 =ヴァンダル王国
|次代7 =スエビ王国
|次代8 =フランク王国
|次代9 =ブルガリア帝国
|次代10 =ヴェネツィア共和国
|次旗10 =Flag of Most Serene Republic of Venice.svg
|国旗画像 =
|国旗リンク =
|国章画像 =
|国章リンク =
|標語 ={{Smallcaps|{{Lang|la|[[SPQR|Senatus Populusque Romanus]]}}}}<br />([[ラテン語]]:ローマの元老院と市民)
|国歌名 =
|国歌追記 =
|位置画像 =Roman Republic Empire map.gif
|位置画像説明 =ローマの領域の変遷
|公用語 =[[ラテン語]]<BR>[[古代ギリシア語]]<BR>[[ギリシア語]]
|首都 =[[ローマ]]([[紀元前753年]]-[[330年]])<br />[[コンスタンティノポリス]]([[330年]]-[[1204年]]/[[1261年]]-[[1453年]])<br />[[ニカイア]]([[1204年]]-[[1261年]])<br />[[メディオラヌム]]([[395年]]-[[402年]])<br />[[ラヴェンナ]]([[402年]]-[[476年]])
|元首等肩書 =[[皇帝]]
|元首等年代始1 =[[紀元前27年]]
|元首等年代終1 =[[395年]](西ローマ皇帝もローマ皇帝に含めれば480年)
|元首等氏名1 =[[ローマ皇帝]]
|元首等年代始2 =[[395年]]
|元首等年代終2 =[[480年]]
|元首等氏名2 =[[西ローマ帝国|西ローマ皇帝]]
|元首等年代始3 =[[395年]]
|元首等年代終3 =[[1453年]]
|元首等氏名3 =[[東ローマ帝国の皇帝一覧|東ローマ皇帝]]
|元首等年代始4 =
|元首等年代終4 =
|元首等氏名4 =
|元首等年代始5 =
|元首等年代終5 =
|元首等氏名5 =
|首相等肩書 =[[執政官]](共和制ローマにおいては元首)
|首相等年代始1 =[[紀元前509年]]
|首相等年代終1 =[[紀元前27年]]
|首相等氏名1 =[[共和政ローマ執政官一覧|執政官]]
|首相等年代始2 =[[紀元前27年]]
|首相等年代終2 =[[192年]]
|首相等氏名2 =[[帝政ローマ初期執政官一覧|執政官]]
|首相等年代始3 =[[192年]]
|首相等年代終3 =[[887年]]
|首相等氏名3 =[[:en:List of Roman consuls|執政官の一覧(英語版)]]
|首相等年代始4 =
|首相等年代終4 =
|首相等氏名4 =
|首相等年代始5 =
|首相等年代終5 =
|首相等氏名5 =
|面積測定時期1 =[[トラヤヌス帝]]の治世
|面積値=極大
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|面積値3 =
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|面積値4 =
|面積測定時期5 =
|面積値5 =
|人口測定時期1 =
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|人口測定時期2 =
|人口値2 =
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|人口値3 =
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|人口値4 =
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|人口値5 =
|変遷1 =建国
|変遷年月日1 =[[紀元前736年]]
|変遷2 =[[共和制ローマ|共和制]]
|変遷年月日2 =[[紀元前509年]]
|変遷3 =[[ローマ帝国|帝政]]
|変遷年月日3 =[[紀元前27年]]
|変遷4 =[[テトラルキア]](4分割)
|変遷年月日4 =[[293年]]
|変遷5 =東西分割
|変遷年月日5 =[[395年]]
|変遷6 =[[西ローマ帝国]]滅亡
|変遷年月日6 =[[480年]]
|変遷7 =[[東ローマ帝国]]滅亡
|変遷年月日7 =[[1453年]]
|通貨 =[[デナリウス]]ほか
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|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号追記 =
|注記 =
}}
{{ローマの政治体制}}
 
'''古代ローマ'''(こだいローマ、{{lang-la-short|Roma antiqua}})は、[[イタリア半島]]中部に位置した多部族からなる[[都市国家]]から始まり、領土を拡大して[[地中海世界]]の全域を支配する[[世界帝国]]までになった国家の総称である。当時の正式な国号は'''元老院ならびにローマ市民'''(Senatus Populusque Romanus)であり、共和制成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。 [[ローマ]]市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度にさまざまな形で残り、今日まで影響を与えている。
 
なお、中世以降のローマ帝国は、その統治区域から'''[[東ローマ帝国]]'''と呼ばれ、古代ローマとは区別される。ただし両者は連続しており、その境界は明白でないし、自らも単にローマ帝国と名乗っていた。
 
== 時代区分 ==
''''斜体文''''=== 王http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%93%9C%E6%97%B6%E4%BB%A3政期 ===
{{main|王政ローマ}}
[[紀元前753年]](建国)から[[紀元前509年]]まで、[[ロムルス]]に始まる伝説上の七人の王が治めていた期間([[伝承]]による)。
 
初期の4人の王はローマ建設時の中心となった[[ラテン人]]と[[サビニ人]]から選ばれているが、その後の3人の王は[[エトルリア人]]出身であるとされる。これは初期のローマにおいてエトルリア人による他民族支配を受けていたことを示すと考えられている。
 
=== 共和政期 ===
{{main|共和政ローマ}}
[[ファイル:Roman Republic-44BC.png|thumb|right|200px|BC44年カエサル統治下の共和制ローマの版図]]
紀元前509年から[[紀元前27年]]まで、イタリア半島の一都市国家から地中海の全域に[[属州]]を持つ[[帝政]]になるまでの期間。政治は[[元老院 (ローマ)|元老院]]と[[執政官]]ら[[政務官 (ローマ)|政務官]]を中心として、[[民会]]などで一般ローマ市民の意思も反映されながら運営された。
 
*共和政初期
**[[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス]]による王政の打倒からイタリア半島の中部・南部を勢力に加えた頃まで。
**政治的には[[パトリキ]]と[[プレブス|プレープス]]の身分闘争とその決着が知られている。
*共和政中期
**三次に及ぶ[[カルタゴ]]との[[ポエニ戦争]]の時期。
**[[セレウコス朝]]や[[アンティゴノス朝]]といった[[ヘレニズム]]諸国との戦争での勝利によって属州を獲得しその勢力圏を広げていった時期。
*共和政末期
**[[グラックス兄弟]]の改革と死、その後の[[内乱の一世紀]]を経て、[[アウグストゥス]]による帝政の樹立までの期間。
**ローマで最も史料の多い期間の一つである。
婦女在古希臘社會的地位甚低,她們沒有接受教育,只能留在家中料理家務。在藝術上,女性甚少成為藝術作品的創作,後來在前四世紀後,才有出現女性美的概念的裸體女像。不論在希臘或希臘化時代,女人在法律上和經濟上的權利相當有限。不過也有些例外的情形,如埃及托勒密二世的王后阿西諾伊二世曾使她的肖像與國王的肖像均鑄在錢幣上,而且在埃及與塞流卡斯王朝的戰爭,展現出色的軍事能力,為埃及獲勝的功臣,因此她和她的母親均有權利戴著王冠。斯多亞和伊比鴆魯兩個哲學學派,都容許女性入學,並且沒有任何性別歧視,希臘化時代末期,在亞歷山大城與雅典甚至有了婦女的俱樂部或聯誼會的組織
 
=== 帝政期 ===
[[ファイル:Roman Empire Territories.png|thumb|right|200px|ローマ帝国の最大版図]]
{{main|ローマ帝国}}
==== 初期 ====
{{see_also|プリンキパトゥス}}
いくつか分け方が存在する。
# [[アウグストゥス]]からはじまる[[ユリウス・クラウディウス朝]]から[[フラウィウス朝]]までとするもの。
# 1. に[[五賢帝]]の時代を加えるもの。
# 2. [[セウェルス朝]]なども加え[[ディオクレティアヌス]]の即位までを帝政初期として帝政全体を二つに分けるもの。
2. の区分が比較的多い。
 
==== 中期 ====
[[セウェルス朝]]から始まり、[[軍人皇帝]]時代を経て、ディオクレティアヌス帝が即位するまで。
 
==== 後期 ====
{{see_also|ドミナートゥス|古代末期}}
[[ディオクレティアヌス]]の即位を普通開始とする。そのまま西ローマ帝国の滅亡までを帝政後期としてくくることも多いが、[[テオドシウス1世]]の死後に帝国が東西に分裂した後は、通常は[[西ローマ帝国]]、[[東ローマ帝国]]としてわける。
 
後期以降の時代は皇帝による専制や君主崇拝が強められ、専制君主制([[ドミナートゥス]])と呼ばれる。
また[[コンスタンティヌス1世]]の[[ミラノ勅令]]によって[[キリスト教]]が公認され徐々にローマの支配イデオロギーの中の枢要な部分を占めるようになっていった。
 
=== 東西分離後 ===
[[ファイル:Imperium Romanum.png|thumb|ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。青と緑色部分は[[トラヤヌス]]帝時代の[[ローマ帝国]]最大版図。赤線は東西ローマの分割線]]
 
==== 西ローマ帝国 ====
{{main|西ローマ帝国}}
その滅亡をもって、[[ヨーロッパ史]]では[[古代]]と[[中世]]との境界とする場合がある。
 
==== 東ローマ帝国 ====
{{main|東ローマ帝国}}
その滅亡を以って、ヨーロッパ史では中世と[[近世]]の境界とする場合がある。
 
<!-->出典が示されておらず、独自研究の恐れが強い為、コメントアウト化。出典を示さない状態で、コメントアウトを外すのは止めてください。
== 滅亡の原因 ==
{{独自研究S}}
古代ローマは、国家の存続期間が約1200年間と世界史上でも群を抜いて長く、また古代にありながら近世の初頭に匹敵するような高度な文化を持ち、その領土も広範囲に及んだため、その滅亡の原因は常に昔から多くの者の関心を引くテーマであり続けた。
 
最も直接的な原因は、国境を警備するのに最低限必要な10万程度の、それもある程度訓練をされた帝国に忠誠を誓う兵力を維持することができなくなった為、蛮族によるイタリアやガリアなど帝国中核州の占領を招き政権が消滅してしまったことによる、という結論で一致している。が、そうした事態を引き起こした原因として、経済上の問題、教育上の問題、政治上の問題、国内の民族構成における問題など、さまざまな要素が取りざたされる。
 
まず、経済上の問題を挙げるなら、ローマの発展は強力な兵士の徴兵源であったローマ市民自作農が健在である間は継続し、自作農の没落と共に領土的拡張は停滞を迎えている。そして、こうした徴兵兵士に代わって職業軍人が軍団兵として徴用されるようになると、ひとつは兵士としての任務期間が25年であったことからより高齢化した兵を抱えやすくなり、これが直接的な軍事力の低下につながった。また、より深刻な問題として多数の常備兵の雇用は常に中央政府を威嚇可能な武装した潜在的な政治勢力を生成し、早くも帝政初頭のユリウス朝中期から頻繁な皇帝の交代や帝国を二分、三分しての内乱の原因としての彼らの介入が開始され、これが国力の大きな消耗を招いた。また、末期に帝国自体が分裂し、外圧への抵抗力が激減し、全ての意味でローマが滅びてしまう遠因にもなった。
 
また、第三の問題として、職業軍人制度は、次第に文化や宗教はおろか、言語さえ異なる異民族兵士を帝国内に多量に内包する結果に繋がり、帝政後期にはローマ人による兵士は帝国内から姿を消し、軍隊の全員が国境付近に住む異民族によって構成されるようになってしまった。当然、こうした結果は、帝政末期に起こった異民族の大移動に対する大幅な抑止力の低下を招いた。
 
このように、古代ローマ国家の初期から中期にかけての連続的な戦争による農村の疲弊と、戦争勝利・領土拡張に伴う大規模な奴隷の流入は、自作農の没落を招き、自作農の没落は、軍隊の無能力化、及び有害化を招き、これがローマの存続にとって、最も致命的で死命を制する病根になった。
 
また、同時にこうした奴隷の流入は、属州からの収奪ともあいまって、ローマ市民における失業率の拡大と労働蔑視、下から上まで多数の遊民階層を生み出す現象も惹起し、長い目で見れば、経済的にもローマを弱体化させる、少なくともローマが帝国内における求心力を失い分裂に向かっていく要因となった。
 
また、急速な領土拡張による国内の民族構成の変化も、この国が衰退に向かった原因の一つになっている。 ローマが発展した要因は、もちろん多数の自作農や地理的環境に恵まれたこともあるであろうが、そのような特徴なら他のイタリア、ガリア、イリリアなどの平凡な南ヨーロッパ諸都市も持っており、彼らに対してローマが大きく傑出できた要素として、ローマに独特の政治体制と教育の習慣があったことは見過ごせない。
 
ところが、民族の多様化とローマ人の減少、少子化、混血の拡大は、先ほどあげた上下共に遊民層が拡大という社会的変質ともあいまって、次第にその進歩的な教育の平凡化を招き、こちらも中期以降のローマから政治的、軍事的体力を奪う要素となった。
 
教育と同時に挙げた政治体制の変質も、ローマの発展を止めた要素であろう。結果から言って、先ほど挙げた自作農の存否の期間とも一致するが、ローマは民主性が機能するうちは発展を続け、民主制の崩壊時期と前後してその領土的拡張を止めている。民主制に変わる、皇帝とその幕僚による一党独裁制、または末期の専制君主制は、政治的腐敗の一層の拡大や事故対処能力の低下を招いたことは言うまでもない。
 
このように、政治、経済、社会上における不利な要素が互いに連動して影響したことにより、ローマは発展をやめ、多少の小休止はあったものの、次第に衰退をしていくのである。<!-->
 
== 古代ローマにおける戦争・戦闘 ==
*[[:Category:古代ローマの戦争]]
*[[:Category:古代ローマの戦闘]]
**[[:Category:共和政ローマの戦闘]]
**[[:Category:ローマ帝国の戦闘]]
* [[ローマ軍団]]
 
== 古代ローマ期の人物について ==
*[[:Category:古代ローマ人]]
*[[:Category:古代ローマの人名]]
*[[共和政ローマ執政官一覧]]
*[[帝政ローマ初期執政官一覧]]
*[[ローマ皇帝一覧]]
*[[:Category:古代ローマの敵と同盟者]]
 
== 古代ローマ期の文化・書籍 ==
[[ファイル:Virgil 1501 Aldus Manutius.jpg|thumb|1501年出版の[[ウェルギリウス]]の叙事詩写本]]
{{see_also|Category:古代ローマの文筆家}}
* [[アッピアノス]] 『ローマ史』
* [[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]] 『[[ガリア戦記]]』『内乱記』
* [[サルスティウス]] 『歴史』 (『カティリナ戦記』 『ユグルタ戦記』)
* [[スエトニウス]] 『ローマ皇帝伝』
* [[タキトゥス]] 『アグリコラ』、『[[ゲルマニア (書物)|ゲルマニア]]』、『歴史』、『年代記』
* [[ディオ・カッシウス]] 『ローマ史』
* [[プルタルコス]] 『[[対比列伝]]』(英雄伝)
* [[ポリュビオス]] 『歴史』
* [[ティトゥス・リウィウス]] 『ローマ史』
* アエリウス・スパルティアヌス他5名 『[[ローマ皇帝群像]](ヒストリア・アウグスタ)』
* [[マルケリヌス・アンミアヌス]]『歴史』
* [[ローマ建築]]
* [[ローマ美術]]
 
 
== 近代以降の古代ローマ史に関する著作 ==
ここでは特に広く知られ、二次資料としての価値が高く、評価の定まった文献のみをあげる。
* [[エドワード・ギボン]] 『[[ローマ帝国衰亡史]]』
* [[テオドール・モムゼン]] 『ローマ史』
*J. B. Bury, ''History of the later Roman Empire: from the death of Theodosius I. to the death of Justinian'', (New York: Dover publications, 1958).
*A.H.M. Jones, ''The later Roman Empire 284-602: a social economic and administrative survey'', (Norman: University of Oklahoma Press, 1964).
*P・ブラウン著、宮島直機訳『古代末期の世界―ローマ帝国はなぜキリスト教化したか?―』刀水書房、2002年
 
== 参考文献 ==
* [[ローマ人の物語]]/[[塩野七生]]
* ローマの歴史/[[インドロ・モンタネッリ]]
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ancient Rome}}
* [[内乱の1世紀]]
* [[SPQR]]
* [[:Category:ローマ法]]
* [[ローマ市民権]]
* [[エクィテス]]
* [[パンとサーカス]]
* [[リーメス]]
* [[:Category:古代ローマの公職]]
*[[ローマの料理]]
*[[十二表法]] - 古代ローマで最初に制定された[[成文法]]
<references />
{{古代ローマ}}
{{ローマ帝国}}
{{Link FA|eu}}
{{Link FA|tr}}
 
[[Category:古代ローマ|*]]
{{Link GA|fr}}
{{Link FA|ko}}
{{Link GA|is}}
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{{Link FA|el}}
{{Link FA|no}}
{{Link FA|tt}}
 
[[af:Antieke Rome]]
[[an:Antiga Roma]]
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[[az:Qədim Roma]]
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[[bar:Remisches Reich]]
[[be:Старажытны Рым]]
[[be-x-old:Старажытны Рым]]
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