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== 歴史 ==
背後の燕山が渤海に迫る狭隘なこの地は交通の要所で、東北から華北中原に向かう軍は必ず通らなくてはならない、いわゆる「兵家必争之地」であった。周の時代には燕の地であり、秦、漢時代には遼西郡に属した。[[女真]]の侵入に対する要所であったため古代から城壁が築かれ、[[漢|漢代]]は既に'''臨楡関'''と称されていた。隋や唐時代にも拡張が重ねられ、現在も当時の城壁が残る。[[明|明代]]の洪武十四年(1381年),将軍の徐達が長城の一部として整備を行い、背後の山(燕山)が渤海に迫る山と海のあいだの狭隘な要地にあることから山海衛と命名して永平府の管轄とし、後に'''山海関'''と称されるようになった。清代以降は行政区画名は[[臨楡県]]と改称されたが、現代では山海関の名称が行政区画名となり現在に至る。
 
軍事要衝として山海関の防備はきわめて厳重であり、1622年には駐屯する守備隊は兵7万9千8百69人、馬匹1万2千7百60頭の記録が残る。明末は[[ヌルハチ]]、[[ホンタイジ]]率いる[[満洲族]]の侵入を阻止し、守将であった[[呉三桂]]が[[清|清朝]]の[[李自成]]軍に投降するまで不落の要塞だった。軍事的な重要性は近代になっても変わらず、[[1933年]](昭和8)1月に[[関東軍]]が山海関を占領、これにより日本軍による[[北京市|北京]]攻略の東部回廊が確保され、2月に[[熱河作戦]]が遂行され、制圧後の[[熱河省]]は満洲国に併合された。
 
== 構造 ==