「テリー・レイ」の版間の差分

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{{by|1974年}}のシーズン後期<ref>[[パシフィック・リーグ]]は{{by|1973年}}から{{by|1982年}}まで前期後期制を採用していた。</ref>、この年から業務提携していた[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]からの要請を受け、補強要員として入団する。同時に獲得した選手が[[マイク・ケキッチ]]である。
 
入団時の[[野球の背番号|背番号]]は'''3'''だが、これは開幕前時点でつけていた[[大杉勝男]]が前年不調で「原点に帰る」との理由でプロ入り時の'''51'''に戻し結果空き番号となったためやむなくつけた結果である。ケキッチと共に即戦力投手として期待されたが1試合+1イニング3[[ボーク]](当時の日本ワースト記録)を犯すなど力を発揮しきれず、たちまち「'''だめ外人'''」のレッテルを貼られる。しかしこの年は13試合に登板して3勝2敗、[[防御率]]3.35と悪くはなかったため「'''貴重な外国人投手'''」として残留し翌{{by|1975年}}もプレー。長身から高め速球、低めへカーブというコンビネーションを武器とする。投手らしい背番号('''17''')をもらうが、11試合に登板して2勝3敗、防御率4.75と成績が下降し前期限りで解雇された。[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]・[[野村克也]]はこのレイから通算600号本塁打を放ち、試合後に「俺は[[月見草]]」とコメントした。なお帰国後、アメリカ球界に復帰したという情報はない。
 
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