「李徳裕」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
6行目:
[[820年]]、[[穆宗 (唐)|穆宗]]が即位すると、翰林学士となった。次いで、[[822年]]には、中書舎人となった。その頃より、[[牛僧孺]]や[[李宗閔]]らと対立し始め、「'''[[牛李の党争]]'''」として知られる唐代でも最も激烈な朋党の禍を惹起した。また、後世の仏教徒からは、[[道士]]の[[趙帰真]]と共に「'''[[会昌の廃仏]]'''」を惹起した張本人である、として非難されている。
 
[[敬宗]]の代に浙西観察使となって、任地に善政を敷き、帝を諌める等の功績があった。[[829年]]、[[文宗 (唐)|文宗]]代では、兵部侍郎となった。時の宰相、[[裴度]]は、徳裕を宰相の列に加えるよう推薦した。しかし、李宗閔が、[[宦官]]と結託して先に宰相の位に就いた。逆に、徳裕は、鄭滑[[節度使]]として地方に出された。[[839年]]には日本からの留学僧[[円仁]]から[[天台山]]留学への便宜を要請されているが、節度使の自立が進んだ現状では勅許は出ないだろうとする見通しを示している<ref>『入唐求法巡礼行記』開成4年正月17日条</ref>。実際、勅許は下りず円仁は「不法滞在」の形で天台山を目指すことになる<ref>森公章「漂流・遭難、唐の国情変化と遣唐使事業の行方」『遣唐使と古代日本の対外政策』(吉川弘文館、2008年)</ref>。
 
[[840年]]、[[武宗 (唐)|武宗]]が即位すると、徳裕が宰相となり、地方の藩鎮の禍を除いた。その功績により、太尉衛国公となった。しかし、[[宣宗 (唐)|宣宗]]が即位すると、再び、潮州司馬、さらに崖州司戸参軍に左遷され、そこで没した。