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'''鳥居 利右衛門'''(とりい りえもん、[[寛永]]20年([[1643年]]) - [[元禄]]15年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]([[1703年]][[1月31日]]))は、[[江戸時代]]前期の[[武士]]。[[高家 (江戸時代)|高家]][[旗本]][[吉良義央]]の家臣。用人50石。名は'''正次'''(まさつぎ)。
 
寛永20年(1643年)、吉良家臣の鳥居吉次の子として生まれる。父は元禄4年([[1691年]])12月23日に死去しており、この頃家督相続したと思われる。用人50石
 
元禄15年(1703年)12月15日、吉良義央に遺恨のある[[大石良雄]]ら元[[赤穂藩]]の浪人([[赤穂浪士]])による吉良邸討ち入りに巻き込まれ討ち死にした([[元禄赤穂事件]])。[[上杉氏]]の『大河内文書』によれば、元禄15年([[1702年]])12月15日の[[赤穂浪士]]討ち入りの際には、吉良義央を逃がした後、須藤与一右衛門(50石近習頭・討死)とともに台所で赤穂浪士たちと戦ったが、相手は[[鎖帷子]]をつけていたため、致命傷を与えられず、結局首を斬りおとされた。[[江戸幕府|幕府]]検死方はこの2人の働きぶりを褒めたという。

[[享年]]60。[[愛知県]][[吉良町]]大字吉田西福寺に墓がある。法名は一峰暁颯信士。
 
== 関連項目 ==