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[[ファイル:Johann_Georg_Weikert_001.jpg|thumb|マリア・カロリーナ王妃]]
'''マリーア・カロリーナ・ダスブルゴ'''(Maria Carolina d'Asburgo, [[1752年]][[8月13日]] - [[1814年]][[9月8日]])は、「女帝」[[マリア・テレジア]]と[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の十女で、[[ナポリ王国|ナポリ]]と[[シチリア王国|シチリア]]の王[[フェルディナンド1世 (両シチリア王)|フェルディナンド4世および3世]]<ref>ナポリ妃(としてはフェルディナンド4世で、シチリア王としては3世。[[両シチリア王国|両シチリア]]王としてはフェルディナンド1世となるが、それは王妃の死後である。</ref>の王妃。'''マリーア・カロリーナ・ダウストリア'''(Maria Carolina d'Austria)とも。ドイツ名は'''マリア・カロリーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン'''(Maria Karolina von Habsburg-Lothringen)。
 
== 生涯 ==
当初は[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉[[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1751-1767)|マリア・ヨーゼファ]]が1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリの[[フェルディナンド1世_(両シチリア王)|フェルディナンド4世]]<ref>ナポリ王としてはフェルディナンド4世で、シチリア王としては3世。両シチリア王としては1世となる</ref>へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹[[マリー・アントワネット|マリア・アントーニア]](マリ・アントワネット)は大変悲しんだという。
 
婚前の約束から、政治に興味を持たなかったフェルディナンド1世や婚前の約束から夫に代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉からナポリ王国を、前国王時代から政治を牛耳っていた[[ベルナルド・タヌッチ]]を追放、兄[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]にならい[[士官学校]]を作り、軍隊の再編をしている。また、多くの子にも多く恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリア・アントーニアではなく{{要出典範囲|マリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている|date=2010年5月}}。
 
[[フランス革命]]が起こると、初めは革命側の市民たちに同情を寄せていた。1793年のルイ16世の処刑、その後のマリ・アントワネットの処刑によって態度を硬化させるが、それまではナポリ国内における[[フリーメイソン]]活動にも力を貸していたほどで、ナポリには女性が加入できる団体もあったという。ともかく、妹夫婦の処刑という事態にマリア・カロリーナとフェルディナンドは震え上がり、彼女は夫を動かしてナポリ・シチリア合同軍を組織させ、フランス革命軍との戦いに転じた。
 
しかしフェルディナンド自身が「どんな立派な軍服を着せても、彼らが逃走するのを防げる手立てはない<ref>''Napoleon's Campaigns in Italy'' (Men-at-Arms serise 257) by Philip Haythornthwaite and Richard Hook</ref>」と嘆息するヨーロッパ最弱のナポリ軍は、出征先で負け続け大恥を晒した。1796年に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の指揮するフランス軍が[[北イタリア]]をほぼ手中に収めると、マリア・カロリーナは侵攻を恐れて、800万フランという巨額の賠償金を払って講和し戦線から脱落せざるをえなかった。これで皮肉にも(国内での中途半端な改革と戦争での致命的な失敗という)母マリア・テレジアがかつて国政で置かれた状況にも酷似することになった。
 
[[ヴェズーヴィオ|ヴェズーヴィオ山]]の噴火も重なり、精神的にも肉体的にも弱ったマリア・カロリーナは、[[アヘン]]を常用するようになっていた。1797年になると彼女の健康状態はかなり悪化していたが、故国[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]との同盟関係を再確認させるなど、依然として外交をリードし、1798年に[[教皇領]]のローマでの反乱がきるとこれに介入を命じる。しかし鎮圧失敗したのみならず、年末にはわずかな数のフランス軍の逆襲を受け、ナポリ市までもが占領される事態に発展する。1799年1月に[[ナポリ]]で革命が起こり、共和制が成立して、[[パルテノペア共和国]]が宣言されてしまった。6月に国王派が巻き返し、フェルディナンドは実権を辛うじて回復したが、その権威は揺らいだ。[[イギリス]]艦隊が入る前に国王は[[ホレーショ・ネルソン|ホレイシオウ・ネルソン]]提督と同盟を成立させており、条件付き降伏を飲んだ共和派の一部は無事にフランスへ亡命した。しかし、国内にとどまる共和派に対して国王夫妻は情け容赦なく弾圧し、数千人の共和派が捕らえられて処刑された。
妹の処刑や[[ヴェズーヴィオ|ヴェズーヴィオ山]]の噴火、精神的肉体的に弱ったマリア・カロリーナは[[アヘン]]を常用するようになっていた。
 
1806年、フェルディナンドは、絶頂期にあった[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]により、いとも容易くフェルディナンドはナポリ王位から退位させられた。王位はシチリア王のみとなったが、シチリア島に移ってからもマリア・カロリーナは1812年まで実権と影響力を維持した。彼女は、夫が摂政に任命した[[フランチェスコ1世 (両シチリア王)|フランチェスコ]]王子(のちの両シチリア王)に抵抗するが、結局はシチリア島から出て行くようにの退去を息子から命令さじられ、オーストリアへの亡命を余儀なくされる。こうして晩年は家族から疎まれる存在となり、ウイーンにて病死した。
1797年になると彼女の健康状態はかなり悪化していたが、故国[[オーストリア]]との同盟関係を再確認させるなど、依然として外交をリードし、1798年に、教皇領のローマでの反乱がおきるとこれに介入を命じる。しかし鎮圧は失敗したのみならず、年末には僅かなフランス軍の逆襲を受け、ナポリ市までもが占領される事態に発展。1799年1月に[[ナポリ]]で革命が起こり、共和制が成立して、[[パルテノペア共和国]]が宣言されてしまった。6月に国王派が巻き返し、フェルディナンドは実権を辛うじて回復したが、その権威は揺らいだ。[[イギリス]]艦隊が入る前に国王は[[ホレーショ・ネルソン|ホレイシオウ・ネルソン]]提督と同盟を成立させており、条件付き降伏を飲んだ共和派の一部は無事にフランスへ亡命した。しかし、国内にとどまる共和派に対して国王夫妻は情け容赦なく弾圧し、数千人の共和派が捕らえられて処刑された。
 
1806年、フェルディナンドは、絶頂期にあった[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]により、いとも容易くナポリ王位から退位させられた。王位はシチリア王のみとなったが、シチリア島に移ってからもマリア・カロリーナは1812年まで実権と影響力を維持した。彼女は、夫が摂政に任命した[[フランチェスコ1世 (両シチリア王)|フランチェスコ]]王子(のちの両シチリア王)に抵抗するが、結局はシチリア島から出て行くように息子から命令され、オーストリアへの亡命を余儀なくされる。こうして晩年は家族から疎まれる存在となり、ウイーンにて病死した。
 
== 子女 ==
*[[マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン|マリーア・テレーザ]](1772年 - 1807年) - オーストリア皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]妃
*[[ルイーザ・マリア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ|マリーア・ルイーザ]](1773年 - 1802年) - トスカーナ大公[[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド3世]]妃
*カルロ・ティト(1775年 - 1778年)
*マリア・アンナ(1775年 - 1780年)
*[[フランチェスコ1世 (両シチリア王)|フランチェスコ・ジェンナーロ]](1777年 - 1830年) - 両シチリア王
*[[マリア・クリスティーナ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1779-1849)|マリーア・クリスティーナ]](1778年 - 1849年) - サルデーニャ王[[カルロ・フェリーチェ・ディ・サヴォイア|カルロ・フェリーチェ]]妃
*マリーア・アメリア(1779年 - 1783年)
*カルロ・ジェンナーロ(1780年 - 1789年)
*ジュゼッペ・カルロ(1781年 - 1783年)
*[[マリー・アメリー・ド・ブルボン|マリーア・アマーリア・テレーザ]](1782年 - 1866年) - フランス王[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]妃
*マリーア・クリスティーナ(1783(1783)
*[[マリア・アントニア・デ・ナポレス・イ・シシリア|マリーア・アントーニア]](1784年 - 1806年) - スペイン王[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]妃
*マリーア・クロチルダ(1786年 - 1792年)
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