「平和橋 (広島市)」の版間の差分

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|幅= 250px
| 1=Hiroshima map circa 1930.PNG
| 2=1930年ごろの広島市。右上の猿猴川の鉄道橋が大洲口
| 3=19860814 upEnkogawa.jpg
| 4=大洲口(1986年)
| 5=Heiwa-bashi_at_Hiroshima_01.jpg
| 6=現橋(2009年)
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'''平和橋'''(へいわばし)は、[[広島県]][[広島市]]の[[猿猴川]]に架かる[[橋|道路橋]]。
 
なお本項では1980年代まで当地にあった国鉄[[宇品線]]の[[鉄道橋]]「大洲口」についても述べる。
 
== 概要 ==
旧国宇品線の鉄道から梁と人道橋(歩道橋)を経が存在しいた場所に、廃線後都市計画道路が建設され、現在の車道と歩道からなる道路橋になっ架け替えられた経緯を持つ。
 
「ひろしま2045 平和と創造のまち」事業により作られた構造物のひとつであり、[[岸和郎]]デザインによる。橋中間部の張り出したテラスや[[ウッドデッキ]]風の歩道が特徴的。
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== 歴史 ==
{{和暦|1894}}、[[広島駅]]から宇品港(現[[広島港]])に向けて、[[陸軍省]]の委託により[[山陽鉄道]]が軍用線を建設することになり、猿猴川に上下線2本からなを渡鉄橋・大洲口が同年8月に仮設橋として架橋されたその後、1897年5月1日から山陽鉄道が旅客営業を開始するのに伴い、本設の橋梁として架け替えられている)。付近の橋梁としては、大正に入り上流に大正橋が、昭和初期に入り東大橋が架かる(いずれも道路橋)
 
{{和暦|1945}}8月6日、[[広島市への原子爆弾投下|原爆被災]]。[[爆心地]]から約2.52kmに位置したが被害はなく、避難者が比治山方向からこのを渡って大洲地区へと逃げていった。当日宇品線は宇品~南段原間で負傷者の輸送が行われた後、その列車編成がこの橋梁を渡って広島駅の機関区に帰ったという。翌7日夕刻には宇品線の初列車第437列車(427列車の誤記か)が通過している。
 
[[の [[1945年]](昭和20年)[[9月]]、[[枕崎台風]]により大洲口橋梁の一部が流失したため輸送量低十数メートルから上(東)に橋梁を新設して宇品線の軌道は撤去が移設され単線となりた。旧橋梁の位置には、{{和暦|1948}}<要出典>、その残った橋脚を利用して歩行者専用幅1.5mの人道橋「平和橋」が架けられた。
 
{{和暦|1986}}に宇品線は廃止され、それに伴い軌道は撤去されたが、人道橋はそのまま地元住民の生活道路として使用された。
 
{{和暦|1995}}被爆50年目の節目に市が推進した、優れたデザインのインフラを整備する「ひろしま2045 平和と創造のまち」事業において、平和橋を人道橋から岸和郎がデザインする道路橋に架け替えることが決定した。人道橋に併設する形で{{和暦|2002}}6月17日に現在の橋が開通した。その後、人道橋は撤去された。
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* ひろしま2045平和と創造のまち事業の主な作品
** [[広島西消防署]]([[山本理顕]])、[[広島市環境局中工場]]([[谷口吉生]])、[[広島市立基町高等学校]]([[原広司]])
 
== 参考文献 ==
* [http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2012/06/22_1.html] [http://shopping.hobidas.com/shop/hobidas-syoten/item/77705328.html] [[長船友則]] 『宇品線92年の軌跡』(RM LIBRARY 155) [[ネコ・パブリッシング]]、[[2012年]] ISBN 9784777053285
 
== 外部リンク ==