「アン・オブ・クレーヴズ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
30行目:
[[ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国|ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公]][[ヨハン3世 (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公)|ヨハン3世]]の娘として生まれた[[ドイツ]]人のアンは、ヘンリー8世にプロテスタントの王妃をと希望していたヘンリーの家臣・[[トマス・クロムウェル]]らの意向で王妃の候補に選ばれ、[[イングランド]]へ嫁ぐことになった。
 
家臣のクロムウェルから前もって見合い用のアンの肖像画を見せられたヘンリーは、その肖像画を一目で気に入り、若い使い走りの少年の姿に変装してこっそりアンの姿を見に行ったが、ヘンリーは実際のアンの顔を見て、「絵に描いてある女とは違う!」と激怒した。一方のアンも、ヘンリーの正体を知らなかったため、馴れ馴れしい中年男性に困惑したとも、無礼だと怒ったとも伝えられる。この肖像画は、クロムウェルが宮廷画家の[[ハンス・ホルバイン]]に依頼して描かせたものであったが、実際のアンの姿は肖像画に描かれていたほど美人でなかったと伝わる。クロムウェルはこの責任を取らされて後に[[ロンドン塔]]で[[斬首刑]]に処され、ホルバインは宮廷への出入り禁止画家身分を剥奪されて追放処分を受けることになった。
 
アンはわずか半年で王から離縁され、「王の妹」(the King's Beloved Sister)という称号と所領([[アン・ブーリン]]の邸宅の1つ、ヒバー城もその中に含まれる)、年金を与えられ、ロンドン市内の[[ベイナーズ城]]で余生を送った。離婚の理由としては、かつて[[ロレーヌ公]][[フランソワ1世 (ロレーヌ公)|フランソワ1世]]と交わした婚約をきちんと解消していなかったことが選ばれた。しかし、彼女はその後も王室の行事のたびに国王やその子どもたちへの気前の良いプレゼントを持って現れており、周囲からは非常に好かれていたようである。