「真如苑」の版間の差分

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==略史==
===草創期===
開祖・伊藤真乗は立川飛行機(株)勤務の傍ら、実家に伝わる易学書や、大日本易占同志会で学び<ref name="ichinyo_2"> 『一如の道 補訂第二版』 真如苑教学部(1997.12 第六刷) P345~P356,P363~P367</ref>、易占で、家庭・事業・病気・縁談などを鑑定し判断を与えた<ref name="Shinshuukyou_t">松野純孝/編『新宗教辞典』  東京堂出版 (1984/10) P153~P156</ref>。一方、妻・友司の祖母は、初代・宝珠院として、[[狐憑き]]の徐霊を行っていた<ref name="Shinshuukyou_t" /> 。<br>
真如苑の前身は[[1936年]]に開かれた講(成田山立川立照講)であり、'''「真言宗醍醐派・立川不動尊教会」'''、'''「まこと教団」'''と称す。1951年、真如苑と改称し現在に至る。
このような宗教的背景の中、1935年暮れ、伊藤夫妻は不動明王像を自宅に祭り、翌年、友司が、宝珠院2代目から、祖母の霊能を受け継いだと告げられ、宗教活動を勧められると、4日後の1936年2月8日、真乗は会社勤務を辞し、宗教活動に専念することになった。現在、真如苑では、この日をもって立教開宗の日としている。3月、成田山新勝寺講中という形式を取って、自宅に「立照閣」の看板を掲げた。<ref name="ichinyo_2" /><ref name="numata" />
開祖・伊藤真乗(俗名・文明)と妻・伊藤友司(死後に摂受院さらに摂受心院)は共に山梨県出身。
立教当初の教団の活動は、真乗の易占に加えて、友司を[[霊媒]]として不動明王にお伺いを立てるという形のものであったらしい<ref>三土修平「水ぶくれ真如苑」AA出版 (1987/12) 歴史①草創期</ref>。<br>
1938年、後に「真澄寺」と呼ばれる道場が完成し、組織も「立照閣」から「真言宗醍醐派立川不動尊教会」へと改められた。真如苑の説明では、道場建設場所は、友司による霊意に従って選定された。<ref name="ichinyo_2" /><br>
1936年5月、真乗は真言宗醍醐寺において得度した。1943年には[[伝法灌頂]]を授かり、[[阿闍梨|伝法阿闍梨]]となったことで、真言宗醍醐派から、東京武蔵村山市「常宝院」の特命住職に任ぜられた<ref>ひろたみお「ルポルタージュ真如苑」知人館(1990) P144</ref>。<br>
終戦後、立川不動尊教会は醍醐寺から離れて、独立の宗教団体となり、1948年には名称も「まこと教団」へと改められた<ref name="numata" />。開祖・伊藤真乗(俗名・文明)と妻・伊藤友司(死後に摂受院さらに摂受心院)は共に山梨県出身。
 
===まこと教団事件と真如苑としての出発===
1950年、教団を去った青年により、修行名目でリンチを受けたとの告発があり、伊藤真乗は暴行容疑で逮捕された<ref name="shimada1_1" />。昭和31年、東京高裁は、真乗に対して、執行猶予付きの懲役7月の判決を言い渡し、確定した。この事件は「まこと教団事件」と言われ、マスコミをにぎわせた。<ref name="numata" /><ref name="tatesawa">舘澤貢次『宗教経営学』 双葉社 (2004/3) P130~P133</ref><br>
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