「フランソワ・ルイ・ド・ブルボン (コンティ公)」の版間の差分
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初代コンティ公[[アルマン・ド・ブルボン (コンティ公)|アルマン]]とその妻で[[ジュール・マザラン|マザラン枢機卿]]の姪である[[アンヌ・マリー・マルティノッジ]]の次男として[[パリ]]で生まれた。[[1685年]]、兄の[[ルイ・アルマン1世 (コンティ公)|ルイ・アルマン1世]]が子のないまま[[天然痘]]で急逝したことから、爵位を継いだ。フランソワは知的な子供とみられており、当時最高の教育を受けた。宮廷では彼の振るまいが彼の精神の独立と人気の両方の面で顕著であったことから、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の好感を得られなかった。
[[1688年]]、従兄の[[コンデ公]][[アンリ3世 (コンデ公)|アンリ3世]]の娘で伯父のコンデ公[[ルイ2世 (コンデ公)|ルイ2世]](大コンデ)の孫娘に当たる[[マリー=テレーズ・ド・ブルボン (1666-1732)|マリー=テレーズ・ド・ブルボン]]と結婚する。同時に
従兄のロングヴィル公ジャン・ルイが[[1694年]]に亡くなると、コンティ公は彼の遺志によるものだとして、ジャン・ルイの姉であるヌムール公爵夫人マリーに対して[[ヌーシャテル]]公領の権利を請求した。しかし、スイスからの軍事援助を獲得するのに失敗し、ルイ14世軍はマリーに係争地となっていた領土を譲り渡した。
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