「大同盟戦争」の版間の差分

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ウィリアム3世はナミュール陥落後はブリュッセルから南西の[[ハレ (ベルギー)|ハレ]]に進軍、リュクサンブールも後を追い、[[8月3日]]に[[ステーンケルケの戦い]]が起こった。戦いはフランスの勝利に終わったが、両軍共に死者が多数に上ったため、双方はこの年の戦役を打ち切った。イタリアはマクシミリアン2世の後任としてオーストリアの将軍[[アエネアス・シルウィウス・カプラーラ]]が派遣されたが、南フランスの略奪以外に変化は無かった。
 
[[1693年]]3月にウィリアム3世はイングランドからオランダへ渡ったが、[[5月22日]]にハイデルベルクが再度フランス軍に奪われ、[[6月17日]]に[[ラゴスの海戦 (1693年)|ラゴスの海戦]]でイングランド貿易会社の船団がトゥールヴィルのフランス海軍に襲われ壊滅、7月にリュクサンブールはナミュールから東進して[[リエージュ]]を狙い、その途上にある[[ユイ (ベルギー)|ユイ]]を落とすなど戦況は同盟軍に不利な状況に陥った。救援に赴いたウィリアム3世は陥落を知り[[ランデン]]付近に停止、[[7月29日]]にリュクサンブールが同盟軍に攻撃した([[ネールウィンデンの戦い (1693年)|ネールウィンデンの戦い]])。同盟軍は1万以上の大損害を出して敗走したが、フランス軍も8000以上の被害のため追撃出来ず、10月に[[シャルルロワ]]を落としてサンブル川は完全にフランス軍の領域になる一方でユイから東のマース川流域は同盟軍が確保した。しかし、イタリア戦線で[[10月4日]]の[[マルサリーアの戦い]]でヴィットーリオ・アメデーオ2世が再度カティナに敗北すると和平を考えるようになっていった。
 
1694年は全体的に戦線は停滞したままで、同盟軍が9月にユイを奪還、イタリア方面軍指揮官がカプラーラからオイゲンに交代、地中海に派遣されたラッセルのイングランド艦隊がスペイン南部の[[カディス]]を占領、スペイン北東部の[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]に侵入したフランス軍を牽制して[[バルセロナ]]から手を引かせた他は変化が無かった。しかし、フランスは凶作に見舞われ病気による死者が急増、国内経済も危機に瀕していた<ref>林、P90 - P92、友清、P185 - P197、P206 - P209、マッケイ、P32 - P37。</ref>。