「仏蘭戦争」の版間の差分

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ところが、対陣中にテュレンヌが大砲の砲撃に直撃して戦死してしまった。フランスにとって重大な損失であり、撤退したフランス軍の後を追ってアルザスに入った帝国軍防衛のためコンデ公父子をネーデルラントからアルザスへ送ったが防衛に手一杯であり、北の[[モーゼル川]]流域に派遣されたクレキがロレーヌ公シャルル4世に敗北、[[トリーア]]も占領された。ドイツ戦線はそれ以上進展しなかったが、コンデ公、モンテクッコリはこの年を最後に引退している。
 
フランスはオランダ、ドイツ諸侯とその後も戦闘を継続したが、[[カッセルの戦い (1677年)|カッセルの戦い]]・[[サン=ドニの戦い (1678年)|サン=ドニの戦い]]の勝利、フランシュ=コンテなどいくつかの領有の成功を除き戦局は好転せず、リュクサンブールによるネーデルラントの諸都市奪取、コンデ公に代わってライン川方面担当となったクレキがロレーヌ公[[シャルル5世 (ロレーヌ公)|シャルル5世]]からアルザスを防衛した他に進展は無かった。さらに[[1677年]]、イングランド王チャールズ2世の弟[[ヨーク公]]ジェームズ(後の[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]])の娘メアリー(後の[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]])とウィレム3世の結婚により、フランスのオランダ侵略失敗は決定的となった。フランス国内でも戦争続きで赤字・増税となり、憤激した国民が暴動を起こしたりしたためフランスも講和に踏み切った<ref>林、P69 - P72、森田、P261 - P263、長谷川、P137 - P139、友清、P198 - P217。</ref>。
 
== 終結 ==
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