「ステーンケルケの戦い」の版間の差分

編集の要約なし
激戦は夕方まで続き、ブーフレールが戦場に駆けつけ竜騎兵と砲撃で同盟軍攻撃に加わると、ウィリアム3世は戦闘継続を断念して撤退を決めた。退却の指揮はオランダ軍の将軍アウウェルケルク卿[[ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルク|ヘンドリック・ファン・ナッサウ]]が取り、頑強に抵抗してフランス軍の追撃を阻止、フランス軍も被害が大きく追撃出来る状態に無かった。
 
戦闘はフランス軍の勝利だったが、両軍の被害は大きく1692年の戦役は打ち切られ、ウィリアム3世はイングランドへ帰国、リュクサンブールはフランスへ凱旋した。リュクサンブールは英雄として群集の歓迎を受ける一方、ウィリアム3世は[[イギリスの議会|議会]]からゾルムスの傍観を非難され苦しい立場に追いやられた。翌[[1693年]]に両者はネーデルラントで対峙、リュクサンブールがウィリアム3世の陣へ奇襲をかけ再度激突した([[ネールウィンデンの戦い (1693年)|ネールウィンデンの戦い]])。
 
この戦いで、フランス将兵は習慣としていたレースの襟飾り(首布)を変化させ、奇襲で身繕いが間に合わないとみた兵士達は襟飾りを無造作に顎に巻きつけ、上着のボタン穴に突っ込んだ。この巻き方は戦場にちなみステーンケルケと名付けられ、戦後から[[18世紀]]半ばまでフランスで流行していったという<ref>ヴォルテール、P226 - P228、友清、P188 - P190。</ref>。
匿名利用者