「両界曼荼羅」の版間の差分

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== 構成 ==
===胎蔵曼荼羅===
胎蔵曼荼羅は、詳しくは『大悲胎蔵(だいひたいぞう)曼荼羅』<ref>胎蔵界曼荼羅は、[[図像学]]的な研究と[[事相]]面では種々の系統があり、一様ではない。今日、「大悲胎蔵生曼荼羅」をその名前とする場合もあるが、これは『大日経』の「具縁品第二」以下に説かれる名称であり、日本の胎蔵界曼荼羅の呼称としては正確ではない。日本の胎蔵界曼荼羅は弘法大師[[空海]]の請来に始まり、[[東寺]]蔵の『御請来目録』(国宝)には、「大毘盧遮那大悲胎蔵大曼荼羅」と「大悲胎蔵法曼荼羅」、「大悲胎蔵三昧耶略曼荼羅」の三つの名称が記述され、このうち、「大毘盧遮那大悲胎蔵大曼荼羅」が現行の胎蔵界曼荼羅に当るとされる。この胎蔵界曼荼羅は空海の師である[[恵果]]阿闍梨の監修になるもので、曼荼羅研究で知られる[[石田尚豊]]らの報告にもみられるように『大日経』には基づくが、そこに説かれる曼荼羅ではなく、複数の経典を参考にして描かれたものである。であるから、日本には天台宗の[[円仁]]や[[円珍]]の請来による白描の断片的なもの以外に『大日経』の「具縁品第二」以下に説く「大悲胎蔵生曼荼羅」と呼ぶことのできる曼荼羅は実際には存在しない。そのかわり、チベット密教には『大日経』に説く正確な曼荼羅が伝わっているので、既に比較研究されている。また、一行禅師の『大日経疏義釈』第四巻には胎蔵界曼荼羅の諸尊の配置を説くが、その前段に「開出、大悲胎蔵曼荼羅也。」との記述があるので、『大日経』の訳者であり、伝持の八祖ともされる[[善無畏]]三蔵から[[一行]]禅師の系統では、「大悲胎蔵曼荼羅」が胎蔵界曼荼羅の正式な呼び名であったことが分かる。それ故、現時点では胎蔵界曼荼羅の呼称として、空海の請来による三幅の胎蔵界曼荼羅に共通する名称の部分を取り上げ、『大日経』の記述にも考慮した「'''大悲胎蔵曼荼羅'''」が妥当である。</ref>といい、原語には「世界」に当たる言葉が入っていないが、金剛界曼荼羅に合わせて、古くから「胎蔵界曼荼羅」という言い方もされている。
曼荼羅は全部で12の「院」(区画)に分かれている。その中心に位置するのが「中台八葉院」であり、8枚の花弁をもつ蓮の花の中央に胎蔵界大日如来(腹前で両手を組む「法界定印」を結ぶ)が位置する。大日如来の周囲には4体の如来(宝幢-ほうどう、開敷華王-かいふけおう、[[阿弥陀如来|無量寿]]-むりょうじゅ、天鼓雷音-てんくらいおん)を四方に配し、更に4体の菩薩([[普賢菩薩]]、[[文殊菩薩|文殊師利菩薩]]、[[観音菩薩|観自在菩薩]]、[[弥勒菩薩|慈氏菩薩]])をその間に配して、合計8体が表される。
 
なお、通常日本に取り入れられた曼荼羅の呼称について胎蔵界曼荼羅・胎蔵曼荼羅の2つが併用されているが、密教学者・頼富本宏は『曼荼羅の美術 東寺の曼荼羅を中心として』において「曼荼羅の典拠となった大日経と金剛頂経のいわゆる両部の大経を意識したものであり、空海もこの用語(注:両部曼荼羅)のみを用いている」「即ち金剛頂経には、明確に金剛界曼荼羅を説くのに対して、大日経では大悲胎蔵曼荼羅もしくは胎蔵''''''曼荼羅を説くのにかかわらず、胎蔵''''''曼荼羅と言う表現は見られないからである」と書いている。また頼富本宏は、円仁・円珍・安然など天台密教(台密)が興隆すると、修法のテキストにあたる次第類の中に「胎蔵界」と言う表現が用いられるようになり、両界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の語が使われるようになったとする。
 
[[Image:Taizokai.jpg|thumb|190px|right|胎蔵曼荼羅]]