「第二次ウィーン包囲」の版間の差分

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だいにじうぃーん{{Battlebox
| battle_name = 第二次ウィーン包囲
|colour_scheme = background:#ffccaa
| place = [[オーストリア]]・[[ウィーン]]
| result = [[ポーランド王国|ポーランド]]・[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]連合軍の勝利
| combatant1 = [[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[神聖ローマ帝国]]<br />[[File:Flag of the Habsburg Monarchy.svg|25px]][[ハプスブルク君主国]]<br />[[File:Chorągiew_królewska_króla_Zygmunta_III_Wazy.svg|25px]][[ポーランド・リトアニア共和国]]
| combatant1 = {{HRR}}<br />{{AUT1526}}<br />{{POL1569}}
| combatant2 = [[File:Flag of the Ottoman Empire (1453-1844).svg|25px]] [[オスマン帝国]]
| commander1 = [[ファイルFile:BannerFlag of the HolyHabsburg Roman Emperor (after 1400)Monarchy.svg|25px]][[エルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルク|リュディガー・フォン・シュターレンベルク]]<br />[[File:Herb Rzeczypospolitej Obojga Narodow.svg|25px]][[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[シャルル5世 (ロレーヌ公)|ロレーヌ公シャルル5世]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|バイエルン選帝侯マクシミリアン2世]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[ヨハン・ゲオルク3世 (ザクセン選帝侯)|ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク3世]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[ゲオルク・フリードリヒ (ヴァルデック=アイゼンベルク侯)|ヴァルデック侯ゲオルク・フリードリヒ]]
| commander2 = [[File:Flag of the Ottoman Empire (1453-1844).svg|25px]][[カラ・ムスタファ・パシャ]]
| strength1 = 籠城軍15,000人<br />解放軍65,000人
[[1683年]]、ハプスブルク家領の北西ハンガリーでテケリらハンガリー人による反乱が起こり、反乱者たちはオスマン帝国に対して支援を要請した。これを[[スレイマン1世]]の第一次ウィーン包囲以来150年ぶりのオーストリア占領の好機と考えたカラ・ムスタファは、15万からなる大軍を率いてハンガリーからオーストリアに侵入、ウィーンに迫った。神聖ローマ皇帝レオポルト1世は[[7月7日]]に[[エルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルク|リュディガー・フォン・シュターレンベルク]]に守備を任せてウィーンを脱出、[[パッサウ]]に逃れ、[[ムスリム|イスラム教徒]]からヨーロッパを防衛するよう訴えて[[キリスト教徒]]の諸侯に支援を要請した。
 
これに、当時オスマン帝国と[[ポジーリャ|ポドリア]]を巡って争っていたポーランド国王[[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世]]が応え、ヤン3世はポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。[[ロレーヌ公]][[シャルル5世 (ロレーヌ公)|シャルル5世]]、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世]]、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[ヨハン・ゲオルク3世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク3世]]、[[バーデン (領邦)|バーデン辺境伯]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]、[[ヴァルデック侯国|ヴァルデック]]侯[[ゲオルク・フリードリヒ (ヴァルデック=アイゼンベルク侯)|ゲオルク・フリードリヒ]]らも救援軍に合流した。
 
オスマン軍は[[7月13日|13日]]にウィーンに到達し完全に包囲、町の西部から城壁の突破をはかって攻撃を仕掛けた。しかし最新の築城法で[[要塞]]化されて第一次包囲の時代よりはるかに堅固になったウィーン市の防備を破ることができず、攻城戦は長期化した。遠方から進軍してきたため強力な攻城砲を搬入できなかったオスマン軍は、地下から坑道を掘って城壁を爆破する作戦もとったが失敗に終わった。一方、防衛側のウィーン守備軍は士気が盛んでたびたび要塞から打って出てオスマン軍を攻撃したが、包囲軍に対してほとんど損害を与えることはできなかった。
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