「バート・アーロルゼン」の版間の差分

編集の要約なし
m (ロボットによる 追加: uz:Bad Arolsen)
 
=== 新城館 ===
新城館は、[[ヴァルデック侯国|ヴァルデック=ピルモント侯]][[カール・アウグスト・フリードリヒ (ヴァルデック=ピルモント侯)|カール・アウグスト・フリードリヒ]]夫人クリスティーネの未亡人の家として建築家フランツ・フリードリヒ・ロートヴァイルによって1764年から1778年に建設された。内装は[[ロココ]]様式で装飾されている。城館公園は建物の完成後に造営された。公園は四角形で、主にエキゾチックな[[針葉樹]]が植えられている。この公園は、南側は大きなテラス状の果樹園・菜園につながっている。1785年のガイドブックは、この公園を格別な景観を持つ「侯爵の庭」と記述している。この城館は1853年に、ヴィルヘルム・ブラスの計画に基づいて、建築家フランツ・クルツェによって[[古典主義建築]]に改築された。1970年の火災で内装は完全に焼失した。同じ年に、南側への増築を含む再建が始まった。この工事完了後、この館は1974年に「ホテル・ノイエス・シュロス(新城館ホテル)」として開館した。このホテルは1977年にドリント・ホテル社に貸し出され、著名なホテル専門家ヴェルナー・フレーゲルがホテルディレクターとして就任した。彼は1982年までドリント・ホテルを成功に導いた。1998年からは新館と共にティンニトゥス・クリニークとして利用されている。
 
== 歴史 ==
[[File:Bad Arolsen De Merian Hassiae.jpg|right|160px|thumb|1655年に出版された[[マテウス・メーリアン]]の銅版画に描かれたアーロルゼン]]
=== 三十年戦争から19世紀初頭まで ===
[[三十年戦争]]では、城館は[[1622年]]から防備を拡充した。[[1634年]]に工事は完了し、住人は襲撃や略奪から一層護られるようになった。ヴァルデック=アイゼンベルク伯で後に侯となる[[ゲオルク・フリードリヒ (ヴァルデック=アイゼンベルク侯)|ゲオルク・フリードリヒ]]は[[1668年]]に休息のための城館「シャルロッテンタール」を建設した。この城は[[1670年]]頃に造営されたグローセ・アレー(直訳すると「広い並木道」)の西端にあたる。[[1677年]]に古い城館は改修され、伯家のアイゼンベルク系一門はその宮廷をローデンから興隆著しいアーロルゼンに移した。
 
[[1706年]]にフリードリヒ・アントン・ウルリヒ伯が君主となった後、宮殿の新築が計画され、[[1710年]]に着手された。この宮殿は、建築家ユリウス・ルートヴィヒ・ロートヴァイルによる[[ヴェルサイユ宮殿]]を模した近代的[[バロック建築]]の構想に基づいて建設された。内装は、アンドレア・ガラジーニとルドヴィーコ・カステッリによる。伯家は[[1711年]]に改築工事が完了した「シャルロッテンタール城」を「ルイーゼンタール城」と改名した。同じ年にフリードリヒ・アントン・ウルリヒは[[帝国諸侯]]に昇格し、[[1717年]]に世襲の侯位を得たことが公布された。この年にフリードリヒ・アントン・ウルリヒ侯はノイシュタット・アーロルゼンに3軒の建物を建設した。
 
=== 1849年から第一次世界大戦まで ===
ヴァルデック=ピルモント侯[[ゲオルク・ヴィクトル (ヴァルデック侯)|ゲオルク・ヴィクトル]]の[[摂政]]となった[[エンマ・フォン・アンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク=ホイム|エンマ]]の下、[[1849年]]に、当時のドイツでは最も近代的な国家基本法が制定された。これにより4つの行政郡が設けられた。アーロルゼンは、侯国全体の首都であると同時に、ツヴィステ郡の行政府所在地ともなった。いわゆる「テプファーハウス」は侯家御料地の資金で購入され、ヴァルデック侯国で初めての病院とされた。この施設は[[1850年]]に事業を開始した。
 
侯女[[エンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモント|エンマ・ツー・ヴァルデック・ウント・ピルモント]]は[[1858年]]にアーロルゼンで生まれた。彼女は[[1879年]]に[[オランダ]]王妃となり、[[1890年]]には摂政となった。彼女の人気は、オランダ人観光客がバート・アーロルゼンに多く訪れる誘因となっている。
アウグスト・ビーアは1861年にヘルゼンで生まれた。彼はドイツで一流の医師であり、後にベルリンで教授を務めた人物である。彼は[[脊椎麻酔]]の分野や、[[ホメオパシー|ホメオパシー療法]]の導入、[[ヘルメット]]の発明、体育学校の復興などの業績で知られている。
 
侯妃[[ヘレーネ・フォン・ナッサウ|へレーネ]]は、1864年、ヘルゼンに12人の女児のための孤児院を設立した。この孤児院は後の「ゾフィーエンハイム」の由来となった。ヴァルデック地方の若いプロテスタントの女性が教育者として充てられた。さらに周辺地域の年老いた病気の介護が必要な男性もこの施設に保護された。[[ベーテル]]の[[牧師]]フリードリヒ・フォン・ボーデルシュヴィングはこの施設を支援した。彼は、ゾフィーエンハイムの拡充と、その看護師達のための日用品を供給するための活動を行う社会奉仕団マチルデ・ケッターを設立した。1887年にこの施設は「Waldecksches Diakonissenhaus Sophienheim(ヴァルデックの社会奉仕施設ゾフィーエンハイム)」と改名した。その本館は、ヘレーネン通りのパウリーネン病院の隣に設けられた。
[[File:Arolsen 1894.jpg|right|200px|thumb|1894年のアーロルゼン]]
ヴァルデック侯は、[[1868年]]のアクツェッション条約によって、[[プロイセン]]に対する高権の一部を喪失した。
== 人物 ==
=== 出身者 ===
* [[フィリップ・ニコライ]](1556年 - 1608年) - 牧師、作詞家、宗教改革家
* [[ゲオルク・フリードリヒ (ヴァルデック=アイゼンベルク侯)|ヴァルデック=アイゼンベルク侯ゲオルク・フリードリヒ]](1620年 - 1692年) - ドイツの[[元帥 (ドイツ)|ドイツの陸軍元帥]]、オランダ総督の軍人
* [[クリスティアン・ダニエル・ラウフ]](1777年 - 1857年) - 彫刻家
* [[ヴァルター・フォン・カウルバッハ]](1805年 - 1874年) - 画家
* フリードリヒ・カウルバッハ(1822年 - 1903年) - 画家
* マリー・カルム(1832年 - 1887年) - 作家、女権論者
* [[エンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモント]](1858年 - 1934年)1879) - 1879年から1890年までオランダ王妃、その後1898年まで摂政
* [[アウグスト・ビーア]](1861年 - 1949年) - 外科医
* アルベルト・シュタインリュック(1872年 - 1929年) - 俳優
* [[ヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモント]](1896年 - 1967年) - 親衛隊大将
* クリスティーネ・ブリュックナー(1921年 - 1996年) - 作家
* [[ヴィッテキント・ツー・ヴァルデック=ピルモント]](1936年 - ) - ヴァルデック=ピルモント家の家長
* [[イェンス・クニップシルト]](1975年 - ) - テニス選手
* アンナ・ヘーフェレ(1989年 - ) - スキージャンプ選手
 
=== ゆかりの人物 ===
* [[ラインハルト・マルクス]](1953年 - ) - [[枢機卿]]。ミュンヘンおよびフライジング大司教。1981年までアーロルゼンの助任司祭を務めた。
 
== 参考文献 ==
匿名利用者