「ウィリアム・テンプル (初代準男爵)」の版間の差分

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[[ファイル:WilliamTemple.jpg|thumb|right|ウィリアム・テンプル (準男爵)]]
'''ウィリアム・テンプル'''(William Temple、[[1628年]][[4月25日]] - [[1699年]][[1月27日]])は、[[17世紀]][[イングランド王国|イングランド]]の外交官、[[随筆家|エッセイスト]]。[[ジョナサン・スウィフト]]のパトロンでもあった。[[ロンドン]]のシティに近い[[テムズ川]]河畔に生まれる(現在はテンプル・バーエリアになっている)。父は[[アイルランド]]貴族サー・ジョン・テンプル。叔父は神学者の[[ヘンリー・ハーモンド]]
 
== 生涯 ==
[[ケンブリッジ大学]]エマヌエル校で学んだ後[[パリ]]や[[ブリュッセル]]に行きフランス語、スペイン語を学ぶ。[[1655年]]に[[ドロシー・オズボーン]](リーズ公[[トマス・オズボーン (初代リーズ公)|トマス・オズボーン]]の従姉妹)と結婚。アイルランドに行きそこで地方行政に携わりながら、哲学・歴史を習得。[[1665年]]に外交官となるや[[デン・ハーグ|ハーグ]]やブリュッセルに赴任。[[1668年]]には[[フランス王国|フランス]]に対抗すべく[[オランダ]]・[[スウェーデン]]と[[三国同盟]]の交渉に尽力、結果的にはフランスの[[ベルギー]](南ネーデルランド)侵略阻止に成功した([[ネーデルラント継承戦争]])。[[1670年]]、イングランド王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]によってイングランドへ召還された(正式の辞職は[[1671年]])。
1628年、[[アイルランド]]貴族サー・ジョン・テンプルの長男として[[ロンドン]]のシティに近い[[テムズ川]]河畔に生まれる(現在はテンプル・バーエリアになっている)。叔父は神学者の[[ヘンリー・ハーモンド]]で、幼少時にハーモンドの教育を受け、[[ケンブリッジ大学]]エマヌエル校で学んだ後[[グランドツアー]]に参加、[[パリ]]や[[ブリュッセル]]に行きフランス語、スペイン語を学ぶ。[[1655年]]に[[ドロシー・オズボーン]]と結婚、アイルランドに行きそこで地方行政に携わりながら、哲学・歴史を習得、[[1660年]]に帰国した。
 
[[1665年]]に外交官となるや[[デン・ハーグ|ハーグ]]やブリュッセルに赴任。[[1668年]]には[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]の指導者[[ヨハン・デ・ウィット]]と親交を結び、国務大臣のアーリントン伯[[ヘンリー・ベネット (初代アーリントン伯)|ヘンリー・ベネット]]及びウィットと協力して[[フランス王国|フランス]]に対抗すべくオランダ・[[スウェーデン]]と[[三国同盟]]の交渉に尽力、結果的にはフランスの[[ベルギー]]([[南ネーデルランド]])侵略阻止に成功した([[ネーデルラント継承戦争]])。同年、駐蘭大使としてハーグに赴任、ウィットとの親交を深めた。オランダの政治・文化に触れてその気風を称賛している<ref>中西、P84 - P87。</ref>。
[[1674年]]、再びハーグに赴き[[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]]ウィリアム(後のイングランド王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]])と[[ヨーク公]]ジェームズ(後のイングランド王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]])の長女メアリー(後のイングランド王[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]])の結婚に尽力。帰国後は政府の要職を断り著作業に専念。[[サリー (イングランド)|サリー州]]ファーナム近郊の土地を買い取り庭園([[:en:Moor Park, Farnham|ムア・パーク]])を造り上げた。[[名誉革命]]に一切関与しなかったが、晩年は娘ダイアナの夭折、息子ジョンの自殺、妻ドロシーの死に見舞われた。
 
しかし[[1670年]]、親フランスのイングランド王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]はフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]と[[ドーヴァーの密約]]を結びオランダと手を切る方針に切り替えた。テンプルは何も知らされないままイングランドへ召還、[[1671年]]に正式に辞職となり翌[[1672年]]に[[オランダ侵略戦争]]が始まった。オランダはフランス軍に侵略され、ウィットが不満の爆発した市民に殺害されるなど危機を迎えたが、[[英蘭戦争]]の敗北で[[1674年]]にイングランドとオランダが和睦、妻の従兄弟に当たる親オランダのダンビー伯[[トマス・オズボーン (初代リーズ公)|トマス・オズボーン]](後にリーズ公)が政権を握ると駐蘭大使に復帰した<ref>友清、P119 - P123、P125、P130 - P131。</ref>。
1699年、70歳で死去。ムア・パークは甥ジョン(ウィリアムの孫エリザベスと結婚)が相続、回想録はスフィフトによって編集、出版された。エッセイのスタイルは18世紀の作家に影響を与えた。なお、晩年面倒をみていたスウィフトはテンプルの私生児だったという説もある。
 
同年、再びハーグに赴き[[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]]ウィレム3世(後のイングランド王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]])とチャールズ2世の姪で[[ヨーク公]]ジェームズ(後のイングランド王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]])の長女メアリー(後のイングランド王[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]])の結婚に尽力、フランスとの終戦にも尽くし[[1679年]]の[[ナイメーヘンの和約]]成立に繋げた。同年にダンビーが失脚するとハリファックス伯[[ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯)|ジョージ・サヴィル]]と共にチャールズ2世の側近となり、[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]の改革を主張して定員数を30人に定め、チャールズ2世に枢密院と連携して政治を行うことを勧めたが、枢密院は機能せず失敗、チャールズ2世は野党との和解を図り[[シャフツベリ伯爵]][[アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)|アントニー・アシュリー=クーパー]]を枢密院議長に迎えたため、[[1681年]]に政界から身を引いた<ref>浜村、P121 - P123、友清、P220 - P224。</ref>。
 
以後は政府の要職を断り著作業に専念。[[サリー (イングランド)|サリー州]]ファーナム近郊の土地を買い取り庭園([[:en:Moor Park, Farnham|ムア・パーク]])を造り上げた。[[1688年]]の[[名誉革命]]に一切関与しなかったが、イングランド王に即位したウィリアム3世から国務大臣を打診されたこともある。晩年は娘ダイアナの夭折、息子ジョンの自殺、妻ドロシーの死に見舞われた。
 
1699年、70歳で死去。ムア・パークは甥ジョン(ウィリアムの孫エリザベスと結婚)が相続、回想録はスフィフトによって編集、出版された。エッセイのスタイルは18世紀の作家に影響を与えた。なお、晩年面倒をみていたスウィフトはテンプルの私生児だったという説もある。
 
== 著作 ==
*『古代と近代の学問に関する小論』
*『回想録』 - 三部作
 
== 脚注 ==
<references />
 
==参考文献==
* [[浜林正夫]]『イギリス名誉革命史 上巻』[[未来社]]、1981年。
* [[中西輝政]]大英帝国衰亡史』[[PHP文庫研究所]]、1997年。
* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』P737 - P738、[[研究社]]、2000年。
* [[友清理士]]『イギリス革命史(上)』[[研究社]]、2004年。
 
==関連項目==
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