「ペトロヴァラディン」の版間の差分

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その後12世紀には[[ハンガリー王国]]、1526年に[[オスマン帝国]]、1687年に[[ハプスブルク君主国]]の支配下となる。オスマン帝国統治下では、ペトロヴァラディンには200世帯が住んでおり、3つの[[モスク]]があった。町にはキリスト教徒地区もあり、[[セルビア人]]が35世帯住んでいた。
 
ペトロヴァラディンは、[[1716年]][[8月5日]]、[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|サヴォイ公オイゲン]]がオスマン帝国の軍を打ち破った[[ペーターヴァルダインの戦い]]の主戦場となった。オイゲンは翌[[1717年]]にオスマン帝国を[[ベオグラード]]でも打ち破り([[ベオグラード包囲戦 (1717年)|ベオグラード包囲戦]])、オスマン帝国は[[ポジャレヴァツ]]で和平を求めて交渉の席についた。
 
ハプスブルク家統治下では、ペトロヴァラディンは[[軍政国境地帯]]の一部に組み込まれた。1848年から1849年にかけて、町は新設された自治州・[[セルビア・ヴォイヴォディナ]]の一部となったが、1849年には再び軍政国境地帯の一部へと戻された。1881年に軍政国境地帯が廃止されて以降は、町は[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の自治領邦である[[クロアチア=スラヴォニア王国]]の一部となった。
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