「大トルコ戦争」の版間の差分

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参加者は[[イングランド王国|イングランド]]王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の庶子[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ジェームズ・フィッツジェームズ]]、フランスから[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール]]、ドイツから[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世]]、[[バーデン (領邦)|バーデン=バーデン辺境伯]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]、[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]、[[カレンベルク侯領|カレンベルク侯]][[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]・[[ジョージ1世 (イギリス王)|ゲオルク・ルートヴィヒ]]父子などが加わった。但し、ルイ14世はハプスブルク家の勢いを弱める目的でオスマン帝国と親交を結んでいたため、援助はしていない。
 
遠征軍はまず[[ブダ]]を包囲したが落とせず、隣の[[ペシュト|ペスト]]を落としただけに終わった。しかし翌[[1685年]]に[[ノヴェー・ザームキ|ノイホルヘウゼル]]を占拠してからは順調に進み、[[1686年]]にブダを奪還、ハンガリーの大半を手に入れた。[[1687年]]にドナウ川を南下して[[モハーチの戦い (1687年)|モハーチの戦い]]でオスマン軍に勝利、トランシルヴァニアにも進出した。アパフィ・ミハーイ1世は協定を結びトランシルヴァニアは実質上ハプスブルク家が領有、テケリは抵抗を続けたが味方の大半がオーストリアに寝返ったため没落、以後はオスマン帝国の援助を受けながら蜂起を繰り返していった。
 
この間、ヴェネツィアは[[アドリア海]]に艦隊を派遣して[[ダルマチア]]・[[ボスニア]]を襲撃、1685年に[[ギリシャ]]に進み1687年に[[ペロポネソス半島]]を占領した(戦闘中に[[アテネ]]の[[パルテノン神殿]]爆破事件が発生)。ロシアも[[ツァーリ]]の[[イヴァン5世]]・[[ピョートル1世]]兄弟の姉で摂政[[ソフィア・アレクセーエヴナ|ソフィア]]が重臣の[[ヴァシーリー・ゴリツィン]]が率いるロシア軍を黒海に派遣、1687年と[[1689年]]の2度に渡りクリミア・ハン国に遠征したが、いずれも失敗している<ref>長谷川、P293、パーマー、P34 - P38、マッケイ、P17 - 28。</ref>。
 
=== 戦後 ===
カルロヴィッツ条約によりオーストリアはハンガリー・トランシルヴァニアを獲得、東欧に影響力を及ぼした。三十年戦争でドイツから排除され、フランスの勢威に押されていたハプスブルク家は東欧を足掛かりにして新たな大国へと成長していくことになる。但し、未だ貴族と聖職者の権力が強い時期であり、絶対主義からは程遠い状況にあった。また、トランシルヴァニアの反対勢力は健在で、テケリ亡後に継子の[[ラーコーツィ・フェレンツ2世]]が大規模な反乱を起こすことになる([[ラーコーツィの独立戦争]])。
 
ポーランドは[[ウクライナ]]の[[ポジーリャ|ポドリア]]を獲得したが、内政をおろそかにしていたため王権は弱体化、[[1700年]]に勃発した[[大北方戦争]]を通して更に国威は低下していった。反対にロシアはピョートル1世の下で隆盛を迎え、ポーランドへの干渉を行い、大北方戦争を通して西欧の列強と肩を並べる程になっていった。アゾフは[[1711年]]にオスマン帝国に返還したが、以後のロシアはオスマン帝国への干渉も行うようになった。ヴェネツィアはダルマチアを獲得したが、過去の栄光を取り戻せず衰退していった。
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