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[[ファイル:Wilhelm-reinhard-neipperg.jpg|thumb|300pxright|180px|ヴィルヘルム・フォン・ナイペルク伯]]
 
'''ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルク'''('''Wilhelm Reinhard von Neipperg''', [[1684年]][[5月27日]] - [[1774年]][[5月26日]])は、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]に仕えた[[貴族]]、[[軍人]]。はじめ[[男爵]]、のち後に[[伯爵]]となり、また[[元帥]]に列せられた。[[ナイペルク家]]は[[シュヴァーベン]]に本領をもった貴族で、父は、やはり軍人であった[[エーベルハルト・フリードリヒ・フォン・ナイペルク]]。孫に、[[ナポレオン戦争]]時代に活躍した[[アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク]]がいる。また、娘のアウエルスペルク侯爵夫人[[マリア・ヴィルヘルミーナ・フォン・アウエルスペルク|マリア・ヴィルヘルミーナ]]は大変な美人で知られていて、[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の愛人との噂が流れ、また若いころの[[シャルル・ジョゼフ (第7代リーニュ侯爵)|シャルル・ド・リーニュ侯]]とは恋愛関係にあったという。姓は'''ナイツペルグ'''の表記も
 
[[ナイペルク家]]は[[シュヴァーベン]]に本領をもった貴族で、父はやはり軍人であった[[エーベルハルト・フリードリヒ・フォン・ナイペルク]]。孫に[[ナポレオン戦争]]時代に活躍した[[アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク]]がいる。また、娘のアウエルスペルク侯爵夫人[[マリア・ヴィルヘルミーナ・フォン・アウエルスペルク|マリア・ヴィルヘルミーナ]]は大変な美人で知られていて、[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の愛人との噂が流れ、また若いころの[[シャルル・ジョゼフ (第7代リーニュ侯爵)|シャルル・ド・リーニュ侯]]とは恋愛関係にあったという。姓は'''ナイツペルグ'''の表記も。
== 概歴 ==
 
== 概歴 ==
ナイペルクは[[1702年]]から軍に入り、[[1716年]]には[[大佐]]となる。[[オーストリア・トルコ墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]に従軍して[[プリンツ・オイゲン・フォン・ザヴォイエン|オイゲン公子]]や[[クロード・フロリモン・ド・メルシー|メルシー伯]]の元で活躍、続いて[[四カ国同盟戦争]]が始まると[[シチリア]]に転戦し、[[フランカヴィッラの戦い]]に参加して負傷した。
 
[[1723年]]にナイペルクは[[少将]]に昇進するが、この年ナイペルクは[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]より、皇女[[マリア・テレジア]]の夫に内定しつつあった[[ロレーヌ公国|ロートリンゲン公国]]の公子フランツ・シュテファンの教育者に任命された。ナイペルクは公子に対するカール6世の目の役割を果たすため、当時[[ウィーン]]で暮らしていたフランツに何年間も付き添い、[[1729年]]にロートリンゲン公[[レオポルト (ロレーヌ公)|レオポルト]]が没してフランツが公国継承のため母国に帰った際にも同行した。[[1730年]]ナイペルクは[[ルクセンブルク]]要塞の司令官となってフランツとしばし別れたが、まもなくフランツの諸国宮廷訪問が始まると、ウィーンの指示に従ってその計画を組みたて同行する役目を負って、また付き添い生活を送った。この間、1726年にマリア・フランキスカ・フォン・ケーフェンヒュラーと結婚している。
[[1733年]][[中将]]となる。この年[[ポーランド継承戦争]]が発生するとナイペルクは北イタリア戦線に従軍し、[[ロンバルディア州|ロンバルディア]]を巡って[[フランス王国|フランス]]、[[サルデーニャ王国|サルデーニャ]]連合軍を相手に戦った。[[1735年]][[歩兵大将]]<ref>Feldzeugmeister。元来は砲兵大将を意味した。</ref>に昇進。[[1737年]][[ティミショアラ|テメシュヴァール]]総督に任じられる。
 
このころバルカン方面ではすでに再度の[[オトリア・トルコ戦争マン帝国]]戦争が始まっており、ナイペルクも主な指揮官の一人として従軍した。この戦争において、オーストリアは稚拙な戦略、低い士気と深刻な補給不足によって大きな損害をこうむって戦争を続けることができず、[[ベオグラード]]を含む、かつてオイゲン公子が獲得した[[バルカン半島|バルカン]]南部の広い領域を[[ベオグラード条約]]によって割譲せざるをえなかった。ナイペルクはこの戦争の指揮について主要な責任を負う人物の一人であって、ナイペルクの場合は特に、[[1739年]]に生じた[[グロッカの戦い]]の敗北のあと、ナイペルクが代表となったベオグラードでの和平交渉において、本国との連絡の齟齬や状況の不十分な検討のため本国の承認なしにひどく不利な条件で講和条約をまとめて皇帝が事後承認せざるを得ない状況に追いやったことが責められていた。戦争終結後ナイペルクはカール6世によって他の将軍ともども[[軍法会議]]にかけられ、[[クウォツコ|グラッツ]]要塞に収監された。
 
[[1740年]]、カール6世が没して娘のマリア・テレジアが即位したことからナイペルクは釈放され、さらに[[オーストリア継承戦争]]が始まったことによって、[[シレジア|シュレージエン]]に侵攻してきた[[プロイセン王国|プロイセン]]は[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王2世]](大王)を迎撃する軍の指揮官に任命された。
 
[[1741年]]早春、シュレージエン占領を着々と進めていたプロイセン軍に対し、ナイペルク軍は雪解け前の山地越えを実行してその虚を突き、孤立していた要塞を救出してプロイセン軍の本国からの分断を目指したが、急きょ部隊をまとめて会戦を挑んできたフリードリヒ大王の前に[[モルヴィッツの戦い]]で敗れた。
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