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[[image:Prinz Eugene of Savoy.PNG|thumb|right|280px250px|プリンツ・オイゲン・フォン・ザヴォイエン]]
'''オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン'''({{lang-de-short|Eugen Franz von Savoyen-Carignan}}, [[1663年]][[10月16日]] - [[1736年]][[4月24日]])は、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]に仕えた名高き[[軍人]]で、政治家でもある。'''{{ルビ|プリンツ・オイゲン|{{lang|de|Prinz Eugen}}}}'''の呼び名で知られる。[[サヴォイア家]]の血を引く[[フランス王国|フランス]]生まれの[[貴族]]で、[[サヴォイア公国|サヴォイア公]]の男系子孫にあたることから、{{ルビ|'''公子'''|[[プリンス|プリンツ]]}}の称号をもって呼ばれた。
 
[[1703年]]に陳情のためイタリアは[[グイード・フォン・シュターレンベルク]]に任せて[[ウィーン]]に出向いたが、[[ライン川]]方面で[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]][[バイエルン大公|選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世]]が離反、フランス軍と合流してウィーンを伺う程の勢力を築いたためレオポルト1世から軍事委員会総裁に任命されオーストリアの軍事指揮権を掌握、[[1704年]]にライン川方面の戦線でフランス軍と戦い、[[1704年]]にはオーストリアの同盟国で[[イングランド王国|イングランド]]の司令官[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]の軍と共にフランス・バイエルン連合軍を[[ブレンハイムの戦い]]で破った。この戦いに続く戦闘で、オイゲンの加わる連合軍はドナウ川流域のフランス軍を壊滅させ、戦争が反フランス同盟側の有利に進む大きな契機となった<ref>マッケイ、P80 - P110、友清、P94 - P121。</ref>。
 
その後、マールバラ公とオイゲンはフランス領への侵攻を図ったが、同盟側の結束の緩みから断念せざるを得なくなり、オイゲンのオーストリア軍はマールバラ公のイングランド軍と別れ、フランス軍が進出していた北イタリアに移動した。イタリアではヴァンドームが攻勢に出てサヴォイア公国の大半を制圧、[[トリノ1705年]]も包囲されていた。にレイゲンは巻き返ポルト1世が亡くなり即位を図っが、長男の[[1705年]][[8月16日]]、[[カッサノの戦いゼフ1世]]でヴァンドーム敗北も引き続き仕え友人の[[1706年]]1月にはフラヨハスからベリック公[[ジ・ヴームズンツェルヴラティスラ・フォン・ミトロウィッツジェームズ (初代ベリック公)|ジェームズ・フヴラテッツジェームズ]]が援軍に赴き[[ニーラフ伯爵]]を落し、[[4月19日]]はオイゲンがウィーン滞在中の時にヴァンドームが[[カルチナートの争を主導して]]でオーストリア軍を破るなどイタリア戦線は劣勢のままであった。
 
イタリアではヴァンドームが攻勢に出てサヴォイア公国の大半を制圧、[[トリノ]]も包囲されていた。オイゲンは巻き返しを図ったが、1705年[[8月16日]]、[[カッサーノの戦い]]でヴァンドームに敗北、翌[[1706年]]1月にはフランスからベリック公[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ジェームズ・フィッツジェームズ]]が援軍に赴き[[ニース]]を落とし、[[4月19日]]にはオイゲンがウィーン滞在中の時にヴァンドームが[[カルチナートの戦い]]でオーストリア軍を破るなどイタリア戦線は劣勢のままであった。
 
ところが、[[5月23日]]に[[ラミイの戦い]]でヴィルロワがマールバラ公に大敗すると状況が一変、8月にヴァンドームがヴィルロワに代わって[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]](現[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]])へ送られ、[[フェルディナン・ド・マルサン|マルサン]]と[[オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]がイタリアに派遣されると、オイゲンは[[9月7日]]にヴィットーリオ・アメデーオ2世と共にトリノ包囲中のフランス軍を破り([[トリノの戦い]])、功績からミラノ総督に任命された。翌[[1707年]]3月にミラノも降伏させイタリア戦線からフランス軍を駆逐、同年に[[ナポリ王国|ナポリ]]も[[ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウン|ヴィリッヒ・フォン・ダウン]]率いるオーストリア軍が平定、イタリアはオーストリアの手に入った。5月に[[トゥーロン]]を包囲したが落とせず8月に撤退([[トゥーロン包囲戦 (1707年)|トゥーロン包囲戦]])、11月にミラノ総督を辞任してウィーンへ向かった<ref>マッケイ、P111 - P136、友清、P144 - P145、P175 - P177、P203 - P205。</ref>。
[[1708年]]にフランス軍が反攻を開始したため、再びマールバラ公と共同作戦を行って[[フランドル]]に進軍し、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[ルイ (ブルゴーニュ公)|ルイ]]及びヴァンドームが率いるフランス軍に[[アウデナールデの戦い]]で勝利して[[リール (フランス)|リール]]を攻略した([[リール包囲戦 (1708年)|リール包囲戦]])。しかし、翌[[1709年]]にフランスの将軍[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール]]との[[マルプラケの戦い]]では勝利を収めたものの甚大な被害を受け、オイゲン自身も負傷した<ref>マッケイ、P137 - P164、友清、P220 - P241、P249 - P262。</ref>。
 
マルプラケの戦いの後、反フランス同盟のフランスに対する攻勢は鈍り、同盟軍は引き続きネーデルラントでフランス軍と戦ったが、[[1711年]]に神聖ローマ皇帝[[ヨーゼフ1世]]が死去、スペイン王位候補だった弟のカール大公が皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]に即位したり、マールバラ公が和平へ進んだイギリス本国の命令で罷免され、[[1712年]]7月にマールバラ公の後任のイギリス軍司令官のオーモンド公[[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]]がフランスと和平を結んだイギリス本国の命令で軍を引き上げるなどの行動で苦境に追いやられた。オイゲンは[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]軍と共に抗戦を続けたが[[7月24日]]の[[ドゥナの戦い]]でヴィラールに敗北したこともあって[[1713年]]にイギリス・オランダは[[ユトレヒト条約]]を締結、残されたオーストリアもフェリペ5世にフランス王位継承権を放棄させた上でスペイン王位継承権を認める条件で和平を結んだ。オイゲンはヴィラールと共に交渉を重ね、[[1714年]][[3月6日]]の[[ラシュタット条約]]締結に尽力した<ref>リケット、P47 - P48、マッケイ、P165 - P192、友清、P303 - P304、P332 - P333、P340 - P351、P355 - P365。</ref>。
 
=== 晩年 ===
オイゲンは、スペイン継承戦争の結果オーストリア領となったネーデルラントの総督となり、後にはイタリアにおけるオーストリア領の[[副王]]とされた。[[1716年]]に[[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]が起こるとオーストリア軍を率いて再びオスマン帝国軍と戦い[[ペーターヴァルダインの戦い]][[ベオグラード包囲戦 (1717年)|ベオグラード包囲戦]]で連勝して[[ベオグラード]]を奪ってい、全ハンガリーの割譲を認めさせた[[1718年]]の[[パッサロヴィッツ条約]]締結を実現させた。[[1726年]]に[[ロシア帝国|ロシア]]・[[プロイセン王国|プロイセン]]との同盟締結に尽力、[[1733年]]に発生した[[ポーランド継承戦争]]にも従軍しているが、病気で活躍出来ないまま[[1735年]]に終戦を迎えた。この戦争でプロイセン王太子[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ]](後のフリードリヒ2世、大王)がオイゲンの元で従軍している。
 
その後も生涯をオーストリア軍の将軍として生き続け、かつての功績により政治的にも大きな発言力を有していた。カール6世の皇女[[マリア・テレジア]]の結婚相手にフリードリヒを推挙したが、王女の結婚相手は皇帝も好意を寄せ、皇女と相思相愛のロレーヌ公[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン]]となった。オイゲンは2人の結婚式には見え透いた口実で欠席したが、もしもフリードリヒとの結婚が実現していれば歴史が大きく違っていたと言われる。
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