「伊東祐勝」の版間の差分

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== 略歴 ==
父・義益が[[永禄]]12年([[1569年]])に病死したため、祖父・[[伊東義祐]]によって養育された<ref name="戦国人名事典110">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P110</ref>。[[天正]]5年([[1577年]])に伊東氏が没落すると母の縁者である大友宗麟の保護を受けた<ref name="戦国人名事典110">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P110</ref>。[[天正]]8年([[1580年]])に[[大友義鎮|大友宗麟]]の影響を受けて[[キリシタン]]となり「ジェロニモ」(ゼロニモ<ref name="戦国人名事典110">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P110</ref>)の洗礼名をもらう。また安土(現・[[近江八幡市]][[安土町#歴史地域自治区|安土]]の[[セミナリオ]]に留学し、[[天正遣欧少年使節]]の代表の候補者となるが、安土留学中で出発に間に合わないため外された(『イエズス会日本通信』)。
 
天正15年([[1587年]])、[[豊臣氏]]による[[九州征伐]]後、叔父・[[伊東祐兵]]が[[飫肥城]]に復帰すると帰参した。[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では、兄の義賢や叔父らと[[朝鮮]]に出兵するも病気となり帰国。その途中で船が暴風雨に襲われ[[長門国|長門]]まで流されてしまい、同地で病状が悪化し死去した<ref name="戦国人名事典110">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P110</ref>。24歳没、没月日には「[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]」説もある。なお、兄・義賢と前後して死去していることから、伊東祐兵との家督争いを防ぐために家臣により暗殺されたとする説もある(『日向纂記』巻7-9)。