「ウィレム5世 (オラニエ公)」の版間の差分

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'''オラニエ公ウィレム5世'''('''Willem V van Oranje-Nassau''', [[1748年]][[3月8日]] - [[1806年]][[4月9日]])は、最後の[[オランダ総督]](在位:[[1751年]] - [[1795年]])。父は[[オランジュ|オラニエ]]公[[ウィレム4世 (オラニエ公)|ウィレム4世]]、母は[[グレートブリテン王国|イギリス]]王兼[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[選帝侯]][[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の長女[[アン (オラニエ公妃)|アン]]。
 
父の死によりわずか3歳でオラニエ公を継承し、[[1759年]]まで母の後見を受けて成長、[[七年戦争]]では中立を貫いた。[[1766年]]に成人とみなされ、[[ネーデルラント連邦共和国]]全州の[[オランダ総督|総督]]に任じられた。しかし優柔不断な態度を取っていたため、従来の総督派と都市門閥派の対立だけでなく、共和派の愛国派(パトリオッテン派)が出現する事態となり、政局は混乱した。[[1776年]]に[[アメリカ独立戦争]]が始まると、表向き中立を取りながらアメリカを密貿易で支援し、それが発覚するとイギリスと対立した。[[1778年]]に[[武装中立同盟]]に加盟すると、[[1780年]]にイギリスと戦争状態となり、[[オランダ東インド会社]]の船舶が相次いで拿捕されたり、[[西インド諸島]]の植民地がイギリスに襲撃され劣勢となり、[[1784年]]の[[パリ条約]]でオランダは海外拠点を失い、外交・内政の失敗でウィレム5世の責任が問われる結果となった。
 
[[1776年]]に[[アメリカ独立戦争]]が始まると、表向き中立を取りながらアメリカを密貿易で支援し、それが発覚するとイギリスと対立した。[[1778年]]に[[武装中立同盟]]に加盟すると、[[1780年]]にイギリスと交戦([[英蘭戦争|第四次英蘭戦争]])、[[オランダ東インド会社]]の船舶が相次いで拿捕されたり、[[西インド諸島]]の植民地がイギリスに襲撃され劣勢となり、[[1784年]]の[[パリ条約]]でオランダは海外拠点を失い、外交・内政の失敗でウィレム5世の責任が問われる結果となった。
 
[[1785年]]に愛国派が蜂起すると、[[デン・ハーグ|ハーグ]]から[[ナイメーヘン]]へ避難、[[1787年]]に義兄の[[プロイセン王国|プロイセン]]王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]が[[カール・ヴィルヘルム・フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|カール・ヴィルヘルム・フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]率いるプロイセン軍を派遣してオランダを制圧、愛国派を掃討したためハーグへ戻った。翌[[1788年]]にイギリス・プロイセンと同盟を結んで総督の地位を保障してもらった。
 
[[フランス革命戦争]]が勃発すると、[[1795年]]にフランス軍の侵攻を受けてネーデルラント連邦共和国は崩壊し、最後の総督となったウィレム5世は一家と共にイギリスへ[[亡命]]した。混乱に乗じて愛国派が帰国、フランスの力を借りて[[バタヴィア共和国]]を建国した。[[1802年]]、既に名目上のものとなっていた[[オランジュ|オラニエ]]公の称号を息子ウィレムに譲り、1806年、[[ドイツ]]の[[ブラウンシュヴァイク]]で死去した。
 
[[1815年]]にオランダ王国が成立すると、ウィレム5世の息子が初代国王[[ウィレム1世 (オランダ王)|ウィレム1世]]として即位した。
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