「大倉喜七郎」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
19行目:
気さくで気前がよく、派手好みな[[ハイカラ]]男爵だったため、周囲からは「'''[[バロン (称号)|バロン]]・オークラ'''」と呼ばれて親しまれていた。
[[大倉集古館]]の理事長職を長年つとめるなど文化事業にも功績があり、
[[1900年]]、[[イギリス]]・[[ケンブリッジ大学]]に留学。間もなく自動車の操縦はもとより修理技術まで習得、[[サリー (イングランド)|サリー]]のブルックランズ・サーキットで最初に開催されたカーレースにおいて、イタリア製[[フィアット]]120馬力レーシングカーを操縦して30マイルを争う「モンターギュ・カップ・レース」に平均速度80マイル以上を出して2位入賞([[1907年]]7月6日)。<ref>参戦のきっかけはドイツ人留学生から、「日本は戦争には強いかもしれないが野蛮国だから自動車なぞ無いんだろう」とからかわれたためと言う。また大倉は同じフィアットで日本でもアメリカの曲技飛行家・マースの「赤鬼号」と1911年5月3日に川崎競馬場で競走して勝利を収めている。ところがその帰途、メカニックが電柱にこのフィアットを衝突させて大破し、車は使用不能となったという。</ref>同年、お土産の自動車5台とともに帰国、日本初の自動車専門の輸入会社・[[日本自動車会社|日本自動車]]を設立した。その後も自動車通として知られ、オーナードライバー団体「日本自動車倶楽部」を設立、当局による自動車関連制度の策定にも協力、[[皇室]][[御料車]]の選定や買い付けを任されたこともある。
|