「大倉喜七郎」の版間の差分

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Shukokan (会話 | 投稿記録)
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気さくで気前がよく、派手好みな[[ハイカラ]]男爵だったため、周囲からは「'''[[バロン (称号)|バロン]]・オークラ'''」と呼ばれて親しまれていた。
 
[[大倉集古館]]の理事長職を長年つとめるなど文化事業にも功績があり、とくに近代日本絵画を[[パトロン昭和5]]として、[[1930年]]には大金を投じてローマ開催日本美術展を後援して、[[横山大観]]をはじめとする日本画家たちの活動全面支援するとともにしてイタリア・ローマで「日本美術展覧会」を開催近代日本絵画の[[パトロン]]として同時代の日本画を海外に紹介した。オペラ歌手[[藤原義江]]を援助し海外へ修行この時の出品作品はすべて喜七郎行かせより買い上げられ帰国大戦手元に残されていた主な作品帝国ホテル大倉集古館寄贈されている。わせた、こうした縁から日伊協会の会長を長年に亘り務めた。日本屈指の趣味人でもあり、[[囲碁]]、[[音楽]]、[[舞踊]]、[[ゴルフ]]、[[モータースポーツ|カーレース]]と多彩な才芸を発揮した。[[義太夫]]、[[地唄]]、[[長唄]]、[[常磐津]]、[[清元]]、[[河東節]]、[[新内]]、[[小唄]]なども没頭し音楽方面に功績があり、昭和初期には伝統的な三味線音楽に西洋音楽の歌唱法などを取り入れた新邦楽の一種である[[大和楽]](やまとがく)を創設した。[[尺八]]にも夢中になり、尺八にフルートと尺八のキーシステム合体させ取り入れた新楽器[[オークラウロ]]を開発考案・制作した。ほかに、オーケストラ「東京シンフォニー管弦楽団」やバレエ団「川奈楽劇団」の結成、邦人作曲家による作曲オーディションへの出資やオペラ歌手・藤原義江の支援など、日本における西洋音楽の普及活動にも尽力した。
 
[[1900年]]、[[イギリス]]・[[ケンブリッジ大学]]に留学。間もなく自動車の操縦はもとより修理技術まで習得、[[サリー (イングランド)|サリー]]のブルックランズ・サーキットで最初に開催されたカーレースにおいて、イタリア製[[フィアット]]120馬力レーシングカーを操縦して30マイルを争う「モンターギュ・カップ・レース」に平均速度80マイル以上を出して2位入賞([[1907年]]7月6日)。<ref>参戦のきっかけはドイツ人留学生から、「日本は戦争には強いかもしれないが野蛮国だから自動車なぞ無いんだろう」とからかわれたためと言う。また大倉は同じフィアットで日本でもアメリカの曲技飛行家・マースの「赤鬼号」と1911年5月3日に川崎競馬場で競走して勝利を収めている。ところがその帰途、メカニックが電柱にこのフィアットを衝突させて大破し、車は使用不能となったという。</ref>同年、お土産の自動車5台とともに帰国、日本初の自動車専門の輸入会社・[[日本自動車会社|日本自動車]]を設立した。その後も自動車通として知られ、オーナードライバー団体「日本自動車倶楽部」を設立、当局による自動車関連制度の策定にも協力、[[皇室]][[御料車]]の選定や買い付けを任されたこともある。