「大倉喜七郎」の版間の差分

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[[File:大倉喜七郎男爵顕彰碑.jpg|thumb|[[大倉山ジャンプ競技場]]に建立された「大倉喜七郎男爵顕彰碑」]]
[[1922年]]、父親に代わり[[帝国ホテル]]会長に就任。[[1931年]]、私財を投じて[[大倉山ジャンプ競技場]]を建設。[[1972年]][[札幌オリンピック]]90m級ジャンプの会場として使用された。
 
[[1930年]]、[[横山大観]]を始めとする日本画家たちを全面支援してイタリア・ローマで「日本美術展覧会」を開催、近代日本絵画の[[パトロン]]として同時代の日本画を海外に紹介した。この時の出品作品はすべて喜七郎により買い上げられ、大戦後手元に残されていた主な作品は大倉集古館に寄贈されている。また、こうした縁から日伊協会の会長を長年に亘り務めた。
 
[[1922年]]、[[帝国ホテル]]を本拠とするオーケストラ「東京シンフォニー管弦楽団」を結成、ほかに邦人作曲家による作曲オーディションへの出資やオペラ歌手・藤原義江の支援、バレエ団「川奈楽劇団」の結成など、日本における西洋音楽や舞踊の普及活動に尽力した。
[[1933年]]、伝統的な三味線音楽に西洋音楽の歌唱法などを取り入れた新邦楽[[大和楽]](やまとがく)を創設、[[1935年]]に[[尺八]]にフルートのキーシステムを取り入れた新楽器[[オークラウロ]]を考案・制作するなど邦楽界にも足跡を残した。
 
[[1924年]]の[[日本棋院]]設立時には経済面で多大な援助を行い、[[1946年]]まで日本棋院副総裁を務めて名誉総裁となる。日本棋院ではその功績をたたえ、囲碁の普及、発展の功労者に贈る'''大倉喜七郎賞'''を[[1961年]]に創設。[[2006年]]には日本棋院[[囲碁殿堂]]入りした。