「藤田怡与蔵」の版間の差分

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==経歴==
1917年天津で医師である父・藤田語郎と母・怡与子の間に生まれた。小学校卒業後、父の故郷である[[大分県]][[杵築市|杵築]]に移り[[大分県立杵築高等学校|杵築中学]]に入学した。{{和暦|[[1935}}4年]](昭和10年)4月中学を卒業後、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入り(66期){{和暦|[[1938}}9年]](昭和13年)9月卒業した。遠洋航海後、「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」乗組み。{{和暦|[[1939}}11年]](昭和14年)11月第33期飛行学生として[[霞ヶ浦海軍航空隊]]筑波分遣隊に入隊、後に上司となる[[飯田房太]]に鍛えられた。{{和暦|[[1940}}6年]](昭和15年)6月[[戦闘機]]操縦専修課程として[[大分海軍航空隊]]に入隊、11月に卒業後もそのまま教官として同航空隊に残った。{{和暦|[[1941}}4年]](昭和16年)4月、実戦部隊である[[美幌海軍航空隊]]付となり中国大陸に進出したが、上空哨戒などの地味な任務ばかりで会敵の機会はなかった。同年9月、空母「[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]」に配属となり、[[零式艦上戦闘機|零戦]]の慣熟・編隊空戦・洋上航法と、対米開戦直前の猛訓練に励んだ。
 
1941年11月18日「蒼龍」は[[佐伯湾]]を抜錨、[[択捉島]][[単冠湾]]で空母6隻を中心とする第1機動部隊を編成し26日ハワイに向けて出発した。12月8日[[真珠湾攻撃]]に、飯田房太大尉率いる第2次攻撃隊制空隊の小隊長として参加。米戦闘機は上がってこなかったので、ベローズ・カネオヘ各飛行場を銃撃した。飯田が自爆戦死した後、中隊を率いての帰路途中[[P-36 (航空機)|P-36]]の編隊と遭遇、藤田は1機を撃墜し初撃墜を記録した。ハワイからの帰路[[ウェーク島の戦い|ウェーク島攻撃]]に参加。{{和暦|[[1942}}2年]](昭和17年)2月に[[日本のオーストラリア空襲|ポートダーウィン空襲]]、4月には[[インド洋]]に進出して[[セイロン沖海戦]]に参加した。
 
6月5日の[[ミッドウェー海戦]]では上空直掩隊として10機を撃墜するなど奮戦するも、味方の対空砲火により被弾してパラシュート降下を余儀なくされ、漂流4時間の後に味方駆逐艦「[[野分 (駆逐艦)|野分]]」に救助され九死に一生を得た。撃墜10機は、[[第二次世界大戦]]において世界で記録された一日あたりの撃墜数において、8番目の記録である<ref>『<small>第二次世界大戦</small>鋼鉄の激突』「第十二章 第二次世界大戦のエースたち」</ref>。しかし藤田が漂流中に日本空母4隻は撃破され、海戦は大敗していた。内地帰還後は、敗戦を秘匿するため[[日向市|富高]]基地に隔離され、その後空母「[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]」乗り組みとなった。
 
「飛鷹」は10月に南方に進出したが、艦の故障のため飛行隊のみ[[ラバウル]]に進出し、[[ソロモン諸島の戦い|ソロモン]]・[[ニューギニアの戦い|東部ニューギニア]]での航空戦に従事した。12月初め、「飛鷹」の修理完了にともない[[チューク諸島|トラック島]]で消耗した隊の再編成にあたったが、翌{{和暦|[[1943}}2年]](昭和18年)2月から4月まで再び飛行隊のみラバウルに進出した。
 
6月、[[築城海軍航空隊]]分隊長、11月には[[第三〇一海軍航空隊]]飛行隊長として横須賀に転じた。301空は、新型の局地戦闘機[[雷電 (航空機)|雷電]]を配備した部隊だったが、雷電は故障が多くまた数も揃わず、搭乗員の練成は進まなかった。{{和暦|[[1944}}6年]](昭和19年)6月、米軍の[[マリアナ諸島]]攻撃にともない[[あ号作戦]]が発令され、301空は[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]に進出する事となったが、雷電は航続距離が短く梅雨前線に阻まれて中々硫黄島まで進出できなかった。やむなく零戦に乗り換えて7月初めに硫黄島に進出したが、3日と4日の米機動部隊の空襲により壊滅した。
 
内地帰還後、今度は[[第三四一海軍航空隊]]戦闘402飛行隊長を命ぜられ、明治基地に着任した。341空も新型戦闘機「[[紫電改|紫電]]」が配備された部隊であったがここでも同じように、エンジントラブルや脚の故障が相次ぎ稼働率は低かった。10月14日、[[台湾沖航空戦]]にともない沖縄に進出したが、藤田は機体の故障により引き返した。25日改めて残余の飛行機を率いて[[ルソン島]][[クラーク空軍基地|マルコット基地]]に進出した。進出翌日から連日、制空・直掩・邀撃に追われ、341空の戦力は暫減していった。この頃、航空機の調達や隊員の用兵をめぐって、上級部隊の[[第一航空艦隊|1航艦]]司令部と軋轢があり、司令部で「うちの隊からは絶対に特攻は出せん」とタンカを切ったという。{{和暦|[[1945}}1年]](昭和20年)1月7日、搭乗員は陸路ルソン島北部の[[トゥゲガラオ|ツゲガラオ]]に転進し、そこから輸送機で台湾に撤退した。
 
内地帰還後は、短期間[[第343海軍航空隊|343空]]に籍を置いたのち、[[第六〇一海軍航空隊|601空]]に転じた。5月[[筑波海軍航空隊|筑波空]]福知山分遣隊に移動となり、この地で終戦を迎えた。最終階級は[[海軍少佐]]。生涯撃墜機数は39機、不確実を加えると約50機という。
 
戦後、[[公職追放令]]によりトラック運転手など職を転々とした。{{和暦|[[1952}}年]](昭和27年)、[[日本航空]]に入り民間機パイロットとして活躍、日本航空が導入したジャンボ機の初代機長<ref>『<small>聞き書き</small>日本海軍史』p.43</ref>である。[[1977年]](昭和52年)11月に退職するまで生涯総飛行時間18030時間を数えた。[[2006年]](平成18年)12月1日、[[肺癌]]のため89歳で死去。 「零戦搭乗員会」(現在は「零戦の会」)元代表世話人。
 
== 伝記 ==