「藤田怡与蔵」の版間の差分
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==経歴==
1917年天津で医師である父・藤田語郎と母・怡与子の間に生まれた。小学校卒業後、父の故郷である[[大分県]][[杵築市|杵築]]に移り[[大分県立杵築高等学校|杵築中学]]に入学した。
1941年11月18日「蒼龍」は[[佐伯湾]]を抜錨、[[択捉島]][[単冠湾]]で空母6隻を中心とする第1機動部隊を編成し26日ハワイに向けて出発した。12月8日[[真珠湾攻撃]]に、飯田房太大尉率いる第2次攻撃隊制空隊の小隊長として参加。米戦闘機は上がってこなかったので、ベローズ・カネオヘ各飛行場を銃撃した。飯田が自爆戦死した後、中隊を率いての帰路途中[[P-36 (航空機)|P-36]]の編隊と遭遇、藤田は1機を撃墜し初撃墜を記録した。ハワイからの帰路[[ウェーク島の戦い|ウェーク島攻撃]]に参加。
6月5日の[[ミッドウェー海戦]]では上空直掩隊として10機を撃墜するなど奮戦するも、味方の対空砲火により被弾してパラシュート降下を余儀なくされ、漂流4時間の後に味方駆逐艦「[[野分 (駆逐艦)|野分]]」に救助され九死に一生を得た。撃墜10機は、[[第二次世界大戦]]において世界で記録された一日あたりの撃墜数において、8番目の記録である<ref>『<small>第二次世界大戦</small>鋼鉄の激突』「第十二章 第二次世界大戦のエースたち」</ref>。しかし藤田が漂流中に日本空母4隻は撃破され、海戦は大敗していた。内地帰還後は、敗戦を秘匿するため[[日向市|富高]]基地に隔離され、その後空母「[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]」乗り組みとなった。
「飛鷹」は10月に南方に進出したが、艦の故障のため飛行隊のみ[[ラバウル]]に進出し、[[ソロモン諸島の戦い|ソロモン]]・[[ニューギニアの戦い|東部ニューギニア]]での航空戦に従事した。12月初め、「飛鷹」の修理完了にともない[[チューク諸島|トラック島]]で消耗した隊の再編成にあたったが、翌
6月、[[築城海軍航空隊]]分隊長、11月には[[第三〇一海軍航空隊]]飛行隊長として横須賀に転じた。301空は、新型の局地戦闘機[[雷電 (航空機)|雷電]]を配備した部隊だったが、雷電は故障が多くまた数も揃わず、搭乗員の練成は進まなかった。
内地帰還後、今度は[[第三四一海軍航空隊]]戦闘402飛行隊長を命ぜられ、明治基地に着任した。341空も新型戦闘機「[[紫電改|紫電]]」が配備された部隊であったがここでも同じように、エンジントラブルや脚の故障が相次ぎ稼働率は低かった。10月14日、[[台湾沖航空戦]]にともない沖縄に進出したが、藤田は機体の故障により引き返した。25日改めて残余の飛行機を率いて[[ルソン島]][[クラーク空軍基地|マルコット基地]]に進出した。進出翌日から連日、制空・直掩・邀撃に追われ、341空の戦力は暫減していった。この頃、航空機の調達や隊員の用兵をめぐって、上級部隊の[[第一航空艦隊|1航艦]]司令部と軋轢があり、司令部で「うちの隊からは絶対に特攻は出せん」とタンカを切ったという。
内地帰還後は、短期間[[第343海軍航空隊|343空]]に籍を置いたのち、[[第六〇一海軍航空隊|601空]]に転じた。5月[[筑波海軍航空隊|筑波空]]福知山分遣隊に移動となり、この地で終戦を迎えた。最終階級は[[海軍少佐]]。生涯撃墜機数は39機、不確実を加えると約50機という。
戦後、[[公職追放令]]によりトラック運転手など職を転々とした。
== 伝記 ==
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