「佐々倉桐太郎」の版間の差分

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'''佐々倉 桐太郎'''(ささくら とうたろう、[[天保]]元年([[1830年]]) - {{和暦|[[1875}}年]](明治8年)[[12月17日]])は、[[幕末]]の[[幕臣]]。[[明治|明治期]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[教官]]。[[諱]]は義行。
 
==履歴==
帰国後、軍艦操練所教授方頭取、軍艦役などを歴任、[[小笠原諸島]]の測量や[[幕府海軍]]の強化に尽力した。
 
維新の際、肺病のため[[榎本武揚|榎本艦隊]]には参加できず、子息・佐々倉松太郎(軍艦役)を[[中島三郎助]]に同道させた。[[戊辰戦争]]後、松太郎は生還したが、中島父子は戦死。佐々倉は手を尽くし、中島の末子、[[中島與曽八]]({{和暦|[[1868}}年]](明治元年) - {{[[1929年]](昭暦|1929}}4年)・海軍機関[[中将]])を[[駿府藩|静岡藩]]三等勤番士に採用させ、中島家を存続させた。
 
[[1871年]]([[明治]]4年)[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学寮]]に出仕、{{和暦|[[1873}}年]](明治6年)には兵学権頭となり、海軍軍人の育成に努めた。
 
==人物 ==
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