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奥日光は、その[[高さ#地理|標高]]が日光市街地の約600mに比して約1,000mも高く、夏でも冷涼で日光市街や[[中禅寺湖]]畔が[[梅雨]]空でも奥日光は晴れていることがあるなど、秘境として知られる。人口は900人程度<ref>平成14年度日光市住民基本台帳による。現日光市の人口の約0.1%程度にあたる。</ref>で、定住者は稀有である。
 
奥日光の歴史は、[[日光連山]]が[[奈良時代]]後期あるいはそれ以前の古代から[[山岳信仰]]の対象となった頃に遡り、伝承によれば[[薬師寺 (下野市)|下野薬師寺]]の僧で[[鑑真|鑑真和上]]の弟子如意僧都によって戒を受けて高僧となった[[勝道]]上人が[[修験道]]の霊場として[[日光]]に篭って[[日光山]]を開き、さらに奥地の秘境へと分け入って[[日光湯元温泉]]を発見して[[薬師瑠璃光如来]]を祀った([[温泉寺 (日光市)|温泉寺]])のが奥日光の起源とされている<ref>[http://www.nikko-jp.org/perfect/yumoto/index.html 社団法人 日光観光協会オフィシャルサイト 湯元温泉]</ref>。[[令制国]]時代には日光山の寺社地であったが、[[明治時代]]には夏季の奥日光の冷涼さが評価され、[[湘南]]地区と同じく外国人の保養地として中禅寺湖畔には[[トーマス・グラバー]]の別荘など外国人[[別荘]]が建てられ、日本の夏季の一大社交場となって隆盛した。戦時中には[[皇太子]][[明仁親王]]が同級生とともに[[疎開]]してきている。戦後、高規格の舗装道路が整備されると<ref>[[国道120号|一般国道120号線]]</ref>、類稀な景勝地には国内[[観光客]]が訪れるようになり、外国人別荘は[[ホテル]]や[[公園]]として再生され、また観光牧場、[[温泉旅館]]などの観光施設、夏季の[[高層湿原]]を廻る[[遊歩道]]などが整備され、湯元には日光山[[輪王寺]]によって温泉寺の堂宇が建立された。現在、奥日光は日光市街地や中禅寺湖畔に比較し歓楽的色合いは殆ど無く、静寂な避暑地または温泉保養地となっている<ref>[http://www.nikkoyumoto.com/aboutyumoto.htm 奥日光湯元温泉旅館協同組合]</ref>。
 
== 気候 ==