削除された内容 追加された内容
整理
能の歴史の「江戸時代」までの記述を元に加筆。
6行目:
 
== 歴史 ==
現在能楽と称されている[[芸能]]の起源について正確なことはわかってはいないが、[[7世紀]]頃に中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である[[伎楽]]や、[[奈良時代]]に伝わった[[散楽]]に端を発するのではないかと考えられている。散楽は当初、[[雅楽]]と共に[[朝廷]]の保護下にあったが、やがて[[民衆]]の間に広まり、それまでにあった古来の芸能と結びついて、[[物まね]]などを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展していった。それらはやがて猿楽と呼ばれるようになり、現在一般的に知られる能楽の原型がつくられていった<ref> [http://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/whats/history.html 社団法人・能楽協会 能楽 歴史]</ref>。
 
=== 奈良時代 ===
中国大陸から伝わった散楽と呼ばれる[[芸能]]が移入されたの猿楽のはじまりと考えられている。散楽の具体的な内容は史料が少ない為にはっきりしていないが、[[正倉院]]宝物の「墨画弾弓」に描かれた「散楽図」などから推測される限りでは、[[軽業]]や[[手品]]、[[物真似]]、[[曲芸]]、[[歌舞]][[音曲]]など様々な芸能が含まれていたものとされる。[[朝廷]]は散楽師の養成機関「散樂戸」を設けるなどし、この芸能の保護を図った<ref>『能・狂言を学ぶ人のために』、4頁</ref><ref>[http://www.nihonjiten.com/monogatari/data_3.html 日本辞典 日本舞踊 猿楽]</ref>。
 
=== 平安時代 ===
[[延暦]]元年([[782年]])、[[桓武天皇]]の時代に散楽戸は廃止される。朝廷の保護から外れたことにより、散楽師たちは、[[寺社]]や街角などでその芸を披露するようになった。そして散楽の芸は、他の芸能と融合していき、それぞれ独自の発展を遂げていった<ref>『国史大辞典 6』、478頁</ref>。
 
この散楽が含む[[雑芸]]のうち、物真似などの滑稽芸を中心に発展していったのが猿楽と言われる。当初は物真似だけでなく、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、[[呪術]]まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行った。[[平安時代]]中期頃より、[[神道]]的行事が起源の[[田楽]]や、[[仏教]]の[[寺院]]で行われた[[延年]]などの芸能も興り、それぞれ発達していった。これらの演者は元々[[農民]]や[[僧侶]]だったが、平安末期頃から専門的に演じる職業集団も成立していった。平安時代の末に[[藤原明衡]]が著した『[[新猿楽記]]』には、「福広聖の袈裟求め・妙高尼の襁褓乞い」「京童のそらざれ・東人の初京上」のような演目が並んでいる。僧侶が袈裟をなくして探し回る、独身の尼さんに乳児用のオムツが必要になる、口の上手な京童とおのぼりさんの東人の珍妙なやりとり、といった[[寸劇]]が演じられ、都の人たちが抱腹絶倒していた様子が伺える<ref>『日本の伝統芸能講座 音楽』、173頁</ref>。また同史料には、咒師と呼ばれる呪術者たちへの言及が見られることから、咒禁道の影響を受けた[[儀式]]を芸能と融合させたものがこの時期に存在しており、それらが[[翁舞|翁猿楽]]へと発展したのではないかとの説もある<ref>『能・狂言図典』、81頁</ref>。
 
=== 鎌倉期から室町期 ===
23 ⟶ 25行目:
==== 猿楽の集大成 ====
平安時代には中央的でなかった猿楽であったが、室町時代になると寺社との結びつきを背景に、[[延年]]や[[田楽]]の能(物真似や滑稽芸ではない芸能)を取り入れ、現在の能楽とほぼ同等の芸能として集大成された。
 
猿楽・田楽・延年は、互いに影響を及ぼしあい発展していった。[[12世紀]]から[[13世紀]]頃同業組合として[[座]]が生まれ、[[寺社]]の保護を受けるようになる。[[14世紀]]になると、代わって[[武家]]が田楽を保護するようになり、[[衣装]]や[[小道具]]・[[舞台]]も豪華なものになっていった。そのような状況の中、[[大和猿楽]]の一座である結崎座より[[観阿弥]]が現れ、[[旋律]]に富んだ[[白拍子]]の[[舞]]である[[曲舞]]などを導入して、従来の猿楽に大きな革新をもたらした。
 
このような革新の背景の一つと考えられているのが、当時行われていた「立ち会い能」と呼ばれる[[催し]]である。これは猿楽や田楽の座が互いに芸を競い、勝負を決するというもので、「立ち会い能」で勝ち上がることは座の[[世俗]]的な成功に直結していた。[[観世座]]における猿楽の革新も、この「立ち会い能」を勝ち上がるためという側面があった。
 
[[永和 (日本)|永和]]元年([[1375年]])、[[室町幕府]]の第3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]は、[[京都]]の今熊野<ref>読み方は「いまくまの」である。現在、この土地には新熊野神社<small>(いまくまのじんじゃ)</small>が鎮座する。</ref>において、観阿弥とその息子の[[世阿弥]]による猿楽を鑑賞した。彼らの芸に感銘を受けた義満は、観阿弥・世阿弥親子の結崎座(観世座)を庇護した。この結果、彼らは足利義満という庇護者、そして武家社会という[[観客]]を手に入れることとなった。また[[二条良基]]をはじめとする京都の[[公家]]社会との接点も生まれ、これら上流階級の文化を取り入れることで、彼らは猿楽をさらに洗練していった。その後、第5代将軍[[足利義教]]も世阿弥の甥[[音阿弥]]を高く評価し、その庇護者となった。こうして歴代の観世大夫たちは、時の権力と結びつきながら、猿楽を発展させ現在の能の原型として完成させた。
 
なお、[[室町時代|室町期]]に成立した[[大和猿楽]]の外山座<small>(とびざ)</small>・結崎座<small>(ゆうさきざ)</small>・坂戸座<small>(さかどざ)</small>・円満井座<small>(えんまいざ)</small>を大和四座<small>(やまとしざ)</small>と呼ぶ。それぞれ、後の[[宝生座]]・観世座・[[金剛座]]・[[金春座]]につながるとする説が有力である<ref>ただし、室町期から織豊期にかけては大和猿楽以外にも若狭猿楽、近江猿楽、加賀猿楽、伊勢猿楽、丹波猿楽など数多くの猿楽の流派があり、それぞれに座が存在していた。現在、観世流の職分家の中でも名家中の名家である梅若家は丹波猿楽の系統の一族である(梅若猶彦『能楽への招待』岩波書店、2003年、83ページ)</ref>。
 
猿楽を集大成させた観阿弥と世阿弥は[[時宗]]系の法名を持っており、時宗の踊り念仏の持つ鎮魂儀礼としての側面や、時宗が深く関わっていた連歌(特に花の下連歌と呼ばれる鎮魂儀礼としての連歌)が、後述する夢幻能の成立に強く影響したとの指摘がある<ref>『宴の身体:バサラから世阿弥へ』、1章および4章</ref>。また中世の[[勧進]]聖が上演した唱導劇(仏教の教理を説く劇)も夢幻能の形式に強い影響を与えたとされる。時宗の踊り念仏は民衆の極楽往生願望が根底にあったが、同時に死者の追善供養の場でもあった。すなわち生前の行いによって地獄に墜ちている死者を、踊り念仏への供養によって救うという考え方である。こうした発想が12世紀から14世紀にかけて、寺社の造営資金を集めるための勧進興行へと発展し、田楽や猿楽もその興行の中に組み込まれていった。民衆を対象として仏教の教義を見せる勧進興行において、それまで「翁猿楽」のような呪術的性格を持っていた(超自然の存在を主な観客と想定していた)例式に対し、いわば余興芸として演じられた「猿楽能」は生身の人々を主な観客と想定する芸能へと進化していった<ref>『宴の身体:バサラから世阿弥へ』、4章</ref>。
53 ⟶ 63行目:
現在でも、古くから続く家には、秘伝を記した書物が伝承されていることがある。これを「型附」(かたづけ)と呼ぶ。
 
=== 織豊期から江戸期時代の猿楽 ===
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、猿楽の芸の内容に大きな発展はなかったと考えられている。また[[通説]]では、猿楽は[[織田信長]]や[[豊臣秀吉]]ら時の権力者に引き続き愛好されていた。『宇野主水日記』によると、信長は[[天正]]10年([[1582年]])に安土(現在の[[近江八幡市]][[安土町地域自治区|安土町]])の[[総見寺]]で[[徳川家康]]とともに梅若家の猿楽を鑑賞しており、自身も小鼓をたしなんだと言われ、長男の[[織田信忠|信忠]]は自ら猿楽を演じた、などともされている。ただし、信長が愛好したとして有名な「[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]」は[[幸若舞]]であり[[敦盛 (能)#俗説|能]]ではないにもかかわらず、[[映画]]や[[テレビ]]で演じられる[[桶狭間の戦い]]の前の信長の舞は能の舞と謡いで行われ、そして[[司馬遼太郎]]の『[[街道をゆく]] 四十三 [[濃尾参州記]]』のように「まず陣貝を吹かせ、甲冑をつけ、立ったまま湯漬けを喫し、謡曲「敦盛」の一節をかつ謡いかつ舞ったのは、有名である」などという誤りが広められてしまっていることには注意すべきである<ref>松田存『能・狂言 伝統芸能シリーズ5』[[ぎょうせい]]、1990年、ISBN 4324018146、42ページ</ref><ref>国立劇場『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』淡交社、2009年、ISBN 9784473035301、181ページ</ref>。
専門の芸人である猿楽師によって[[興行]]が行われた他、[[太閤]]・[[豊臣秀吉]]や後の[[征夷大将軍]]である[[徳川家康]]あるいは[[徳川綱吉]]、さらに各[[大名]]などにより演じられていた。また[[間部詮房]]は猿楽師から[[側用人]]に出世した<ref>『能・狂言の基礎知識』、35頁</ref>。
 
幸若舞を好んだ信長に対して、秀吉は晩年熱心に猿楽を演じた。[[文禄]]2年([[1593年]])10月には秀吉は[[後陽成天皇]]の前で、3日間続けて何番もの猿楽を演じている<ref>5日は「翁」「弓八幡」「芭蕉」「皇帝」「源氏供養」「三輪」、6日は「老松」「定家」「大会」および狂言「首引」(家康と共演)、7日には「呉服」「田村」「松風」「江口」「雲林院」「杜若」「金札」(梅若前掲書84-85ページ)</ref>。しかしその一方で、秀吉は大和四座以外の猿楽には興味を示さなかったため、この時期に多くの猿楽の座が消滅していった。いわば、現在能と称されている猿楽が、それ以外の猿楽から秀吉によって選別されたのである。
 
== 江戸時代の猿楽 ==
江戸時代には、徳川家康や[[徳川秀忠|秀忠]]、[[徳川家光|家光]]など歴代の将軍が猿楽を好んだため、猿楽は武家社会の[[文化資本]]として大きな意味合いを持つようになった。また猿楽は武家社会における典礼用の正式な音楽(式楽)も担当することとなり、各[[藩]]がお抱えの猿楽師を雇うようになった。[[間部詮房]]は猿楽師出身でありながら[[大名]]にまで出世した人物として知られている<ref>『能・狂言の基礎知識』、35頁</ref>。
 
なお、家康も秀吉と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた猿楽師であった喜多七太夫長能に保護を与え、[[元和 (日本)|元和]]年間(1615年から1624年)に[[喜多流]]の創設を認めている。家康は観世座を好み、秀忠や家光は喜多流を好んだとされるが、[[徳川綱吉|綱吉]]は宝生流を好んだため、綱吉の治世に[[加賀藩]]や[[尾張藩]]がお抱え猿楽師を金春流から宝生流に入れ替えたと言われている。その結果、現在でも[[石川県]]や[[名古屋市]]は宝生流が盛んな地域である。
 
その一方、猿楽が武家社会の式楽となった結果、[[庶民]]が猿楽を見物する機会は徐々に少なくなっていった。しかし、[[謡]]は[[町人]]の習い事として流行し、多くの謡本が出版された([[寺子屋]]の教科書に使われた例もある)。実際に観る機会は少ないながらも、庶民の関心は強く、寺社への[[寄進]]を集める目的の[[勧進能]]が催されると多くの観客を集めたという。
 
=== 明治時代 ===
77 ⟶ 96行目:
* 石井倫子『能・狂言の基礎知識』[[角川学芸出版]]、2009年、ISBN 978-4-04-703440-2
* 早稲田大学演劇博物館『演劇百科大事典 4』平凡社、1961年
 
== 関連項目 ==
* [[能の歴史]]
 
== 外部リンク ==