「菅茶山」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
5行目:
農業・菅波久助の長子として生まれる。茶山が生まれ育った神辺は、[[山陽道]]の[[宿場町]]として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、[[京都]]の[[那波魯堂]]に[[朱子学]]を学び、[[和田東郭]]に[[古方派|古医方]]を学んだ。京都遊学中には[[高葛陂]]の私塾にも通い、[[与謝蕪村]]や[[大典顕常]]などと邂逅した。
 
故郷に帰り、{{和暦|[[1781}}年]](天明元年)頃、神辺(現在の福山市)に私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。
 
塾は{{和暦|[[1796}}年]](寛政8年)には[[備後福山藩|福山藩]]の[[郷学]]として認可され'''[[廉塾]]'''と名が改められた。茶山は{{和暦|[[1801}}年]](享和元年)から福山藩の儒官としての知遇を受け、[[藩校]][[弘道館 (備後福山藩)|弘道館]]にも出講した。[[化政文化]]期の代表的な詩人として全国的にも知られ、[[山陽道]]を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという。詩集『黄葉夕陽村舎詩』が刷られている。(復刻版は葦陽文化研究会編、児島書店、1981年(昭和56年))
 
廉塾の門人には、[[頼山陽]]・[[北条霞亭]]など多数。墓所は神辺網付谷にある。
 
「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は{{和暦|[[1953}}年]](昭和28年)に国の[[特別史跡]]に指定された。
 
== 参考文献 ==