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'''奥平 忠隆'''(おくだいら ただたか、[[慶長]]13年([[1608年]]) - [[寛永]]9年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]([[1632年]][[2月24日]]))は、[[江戸時代]]初期の[[大名]]。[[美濃国|美濃]][[加納藩]]の第3代藩主。第2代藩主・[[奥平忠政]]の長男。母は[[里見義頼]]の娘。正室は[[酒井家次]]の娘。官位は[[従五位|従五位下]]、[[飛騨国|飛騨]]守。'''松平忠隆'''とも言われる。
 
慶長19年([[1614年]])、父死去したためともない跡を継いだが、幼年のため祖父[[奥平信昌]]政務代行を託した。信昌は翌慶長20年([[1615年]])祖父の死去したため後は、祖母の[[亀姫 (徳川家康長女)|亀姫]]の補佐を受けた。亀姫も寛永2年([[1625年]])に死去した祖母の葬儀は、忠隆が喪主を務めることとなったが、18歳と若年の忠隆に代わって葬儀の差配は叔父の[[松平忠明]]が取り仕切っていたと思われる。
 
寛永9年(1632年)1月5日、25歳の若さで死去した。法号は大林宗功実相院。忠隆の死後に生まれた息子右京(光厳宗電)が生まれたが、生来から病弱であったために幕府からふさわしくないとして家督相続を認可されず、加納藩奥平氏は改易された。なお右京は寛永12年([[1635年]])7月に4歳で死んでいる。加納藩には従弟の[[大久保忠職]]が移封された。
 
{{加納藩主|奥平氏|3代|1614年 - 1632年}}