「桃中軒雲右衛門」の版間の差分

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[[1903年]](明治36年)、桃中軒牛右衛門の名で雲右衛門に弟子入りしていた[[宮崎滔天]]や、[[福本日南]]、政治結社[[玄洋社]]の後援で「義士伝」を完成させる。[[武士道]]鼓吹を旗印に掲げ、[[1907年]](明治40年)には[[大阪]][[中座]]や[[東京]][[本郷座]]で大入りをとった。雲右衛門の息の詰まった豪快な語り口は、それまで寄席芸であった浪曲の[[劇場]]への進出を可能にし、浪曲そのものも社会の各階級へ急速に浸透していくことになる。
 
しかし[[1913年]](大正2年)ごろから、肺結核に罹ったことと、それまでの放蕩が祟って極貧生活に陥り、かつての弟子・宮崎が自宅に引き取って看病した甲斐もなく、[[1916年]](大正5年)11月7日に死亡した。墓所は[[東京都]][[品川区]]の[[天妙国寺]]。戒名は「桃中軒義道日正居士」
 
孫に、超常現象研究者の[[中岡俊哉]]がいる。