「興亜観音」の版間の差分

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[[1937年]]([[昭和]]12年)7月に勃発した[[支那事変]]における上海派遣軍司令官であった[[松井石根]]陸軍大将が、退役後の[[1940年]](昭和15年)、日支両軍の戦没将兵を「怨親平等」に祀るため、私財を投じてこの地に[[聖観音]]を建立した。観音像は松井石根が転戦した南京周辺地等の戦場の土を材料として作られた。同年2月24日には芝増上寺大島徹水僧正(浄土宗)他朝野の名士を集めて開眼式が行われた。なお松井大将はこの近くに庵を建てて住み、毎朝御山に登り観音経をあげていた。
 
現在の興亜観音は、上記の支那事変全戦没者の他、特に所謂「A級戦犯」として処刑された七名の遺骨が埋葬されていることで知られている。その訳は次のとおりである。[[1948年]](昭和23年)12月23日([[今上天皇|今上陛下]]、当時皇太子の誕生日)、[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)においていわゆる[[BCA級戦犯]]として処刑された松井石根、[[東條英機]]等七人は、横浜の[[久保山火葬場]]で荼毘に付された。遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、当時の飛田美善火葬場長と[[小磯国昭]]の弁護人三文字正平らにより密かに骨壷一杯分が集められ、翌年5月3日、松井大将ゆかりの興亜観音に持ち込まれた。当時の住職、伊丹忍礼師(法華宗陣門流、僧正)は即座に七人の遺骨灰と直感し、時期が来るまでとこれを匿い、ようやく[[1959年]](昭和34年)4月19日、[[吉田茂]]筆による「七士之碑」が建てられ、遺骨灰はこの下に埋葬された。なお[[愛知県]][[幡豆郡]](現[[西尾市]])[[三ヶ根山]]にある「殉国七士墓」は、[[1960年]](昭和35年)に興亜観音の七士遺骨から香盒一ヶ分を分骨して埋葬したものである。現在はA級戦犯の刑死者7柱に加え、[[BC級戦犯]]の刑死者1,061柱を合わせた1,068柱の供養碑(大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養碑)、大東亜戦争戦没戦士菩提(昭和19年)も建立されて同戦争の全戦没者を祀り、「小さな靖国神社」とも喩えられている。現住職伊丹妙浄尼(法華宗陣門流に僧籍、忍礼師の三女)忍礼師長女前住職妙徳尼(入院中)の養子、伊丹靖明僧侶(曹洞宗)が妙浄尼を補佐して寺務を司っている。
 
護持支援団体は、[[1942年]](昭和17年)に設立され、主に地元熱海の信者達により守られてきた「興亜観音奉賛会」(初代総裁松井石根)である。なお、[[1994年]](平成6年)設立された「興亜観音を守る会」は、一部役員の不祥事のため、[[2011年]](平成23年)3月解散となった。