「武田元繁」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
全体的に加筆。生涯の項目に小項目を入れて整理。
外部リンクを追加。分郡守護は若狭武田氏が継承しているので訂正。官位に安芸守を追加。その他、一部を加筆。
12行目:
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[刑部省|刑部少輔]]、[[安芸国|安芸守]]
| 幕府 =
| 幕府 = [[室町幕府]][[安芸国|安芸]]分郡[[守護]]
| 主君 =
| 氏族 = [[武田氏]]
27行目:
== 生涯 ==
=== 家督相続まで ===
安芸[[武田元綱]]の子として安芸の[[佐東銀山城]]で生まれる。安芸分郡守護[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]が継承していたが、安芸国の武田氏は[[守護代]]的立場で、[[佐東郡]]・[[山県郡 (広島県)|山県郡]]・安南郡(現在の[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]])の分郡[[を治めていた<ref>安芸守護代]]職自体は[[武田元綱山名氏]]の子としが任じられおり安芸の[[佐東銀名是豊]]などが当時の当主生まれるあった。</ref>
 
[[明応]]2年([[1493年]])、[[明応の政変]]が起き、[[管領]][[細川政元]]が[[室町幕府]]10代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義稙|足利義材]]を追放し、新将軍として[[足利義澄]]を擁立した。[[京都市|京都]]を逐われた義材は、数年間の流浪の末に大内義興を頼って[[山口]]に下向した。この政変の混乱に乗じて[[大内氏]]が武田領へ侵攻を開始した。さらに、明応8年([[1499年]])には家臣であった[[温品氏]]([[温科国親]])が離反して武田家中は大混乱となる。[[毛利氏]]の支援等も受けた武田家臣の[[熊谷膳直]]の働きで国親の反乱は鎮圧されたものの、安芸武田氏は大内氏に服属を余儀なくされた。
48行目:
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
*[http://www.cf.city.hiroshima.jp/gion-k/webstation/rekishi2.html 歴史情報] - 祇園西公民館Web情報ステーション(広島市未来都市創造財団ひと・まちネットワーク部)
**[http://www.cf.city.hiroshima.jp/gion-k/webstation/rekishi/takedasi-aki/akitakeda-jyosyu%20.html 安芸武田氏の当主と時代背景]
**[http://www.cf.city.hiroshima.jp/gion-k/webstation/rekishi/takedasi-nenpyou/nenpyou-4.html 安芸武田氏歴史略年表]
*[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/a_take_k.html 武家家伝 安芸武田氏] - 戦国大名大研究
 
{{安芸武田氏当主|第7代|1505年 - 1517年}}